2017年5月18日(木) 生ける神の神殿として(2コリント6:11-7:1)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
洗礼を受けた途端に、この世との付き合いが一切なくなってしまったら、これほど楽なことはないかもしれません。クリスチャンにとってこの世が生きづらく感じるのは、自分たちに対して無理解であったり、敵対的であったり、軽蔑的であったり、誘惑的であったり、傍若無人であったりするこの世とまったく無関係に生きることはできないからです。できないというのは、その気になってもできないということではありません。極端な禁欲主義に走り、隠遁生活を送れば、不可能なことではありません。
しかし、聖書は、この世の人たちと一切付き合ってはならない、とは禁じていません。そんなことをしたら、この世から出ていかなければならない、とさえ聖書は語っています(1コリント5:9-10)。
それに、もしクリスチャンがこの世から出ていく道を選んでしまったら、復活のキリストがお命じになった伝道命令(マタイ28:18-20)を果たすことができなくなってしまいます。
けれども、聖書は、クリスチャンたちがこの世に生きることを前提にしながら、しかもこの世に倣わないようにと注意を促しています(ローマ12:2)。禁欲主義の隠遁生活でもなく、この世との妥協的な生き方でもない、バランスのとれた生き方を聖書は求めています。
きょう取り上げようとしている個所には、そのバランスを欠いてしまい、この世と何ら変わらない生き方に陥ってしまったコリント教会の信徒たちに、再び清い生活を目指すようにと求めています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 6章11節〜7章1節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
きょうの個所は「あなたがたも同じように心を広くしてください」という勧めの言葉で始まります。もちろん、その前提には、パウロがまず心を開いて、コリントの教会の人々を受け入れているという前提があります。
すでに学んできたように、パウロとコリントの教会の間には、ぎくしゃくとしたものがありました。その原因にはいろいろないきさつや誤解があったことと思われます。もちろん、パウロの側から言えば、コリントの教会に起こった問題をこれ以上放置しておくことはできない、という思いがありました。そのために、厳しい内容の手紙さえ送りました。それは、いうまでもなく、コリントの教会を思ってのことでした。パウロにはコリントの教会を支配しようなどという思いは少しもありません。パウロにとって、教会の頭は主イエス・キリストおひとりしかいないのですから。すべての信徒は、主イエス・キリストに仕え、主に結ばれて、互いに愛し合うべき存在です。
パウロの真摯な願いは、コリントの教会に集う一人一人が、神と正しい関係にあり続けることです。そして、どんないきさつであるにしても、主にある兄弟姉妹として、お互いの関係を修復したいと、そう心から願っています。
この「心を広くしてほしい」「心を開いてほしい」という願いは、来週取り上げようとする個所で、もう一度繰り返されます。そして、今日の個所では、この願いをいったん中断するかのように、コリントの教会の人たちの改めるべき点が指摘されます。パウロはその点を妥協しようとはしません。関係さえ修復されるなら、他のことには目をつぶろうとは妥協しません。なぜなら、それはクリスチャンにとって根本的な問題を含んでいるからです。
もちろん、ここに至ってここまで率直にものが言えるのは、コリントの教会をパウロが信頼している証でもあります。自分が心を開いてコリントの教会の人々を受け入れたように、必ず、コリントの教会の人々もパウロを受け入れてくれると、信頼していたからです。
さて、パウロが修復回復の前提に挙げていることは、彼らが、神にふさわしく、聖なる者にふさわしく生きることです。それは、きょう取り上げた個所の最後に、パウロが語っているとおりです。
「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(2コリント7:1)
「聖である」ということは、そこにも記されているとおり「あらゆる汚れから自分を清め」ることと深くかかわっています。そして、その根底には、神が聖である、という大きな前提があります。その神の御用のために分かたれた者、聖別されたものであるからこそ、聖であることが求められています。
聖別されている、神のためにとっておかれたものであるということは、必然的に、そのとっておいたものを再びこの世のものと同列におくことはできません。
パウロがここで、二つのことを対比させているのは、クリスチャンが「聖別されたもの」であるということを鮮明に描くためです。一方のために分けておかれたのですから、他方のために用いることはできません。
パウロは書き記します。
「正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。」(2コリント6:14-16)
パウロは「わたしたちは生ける神の神殿」とさえ述べています。神殿とは聖なる神が臨在してくださる象徴的な場所です。それほどまでの栄誉をいただいているのですから、この世の用途に再び逆戻りしてしまうことが、どれほど残念であり、また、聖別してくださった神に対して失礼なことでしょうか。
神によって聖別された器として生きること、この栄誉にわたしたちは招かれています。