2017年5月4日(木) 和解のために奉仕する使徒(2コリント5:16-21)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
小学生のころ、お父さんがある国の駐日大使館に勤めている友人がいました。わたしが「大使」という言葉を身近に知ったのはその時が最初だったと思います。もっとも、子供の頃のことですから、「大使」と言われても、ピンと来るものがありませんでした。ただ、大都会の真ん中に広大な敷地を有している大使館の中に住んでいるその友人が、特別な家族のように感じられました。
実は新約聖書にも「大使」という言葉が出てきます。もっともそれは、近代国家が外国に派遣している「大使」とは異なりますので、日本語訳の聖書では「使者」とか「使節」と訳されています。英語訳聖書では昔からambassadorという訳語が使われているために、この個所から現代的な意味での「大使」を連想してしまう人も多いだろうと思います。その個所とは、今日取り上げようとしている個所に出てきます。そこでは、パウロは自分たちを使者の務めをなすものとして描いています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
前回学んだ個所の最後で、パウロはこう述べました。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
つまり、キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったのですから、わたしたちが生きるのは、自分自身のためではなく、死んで復活されたこのキリストのためである、ということです。
このことを受けて、きょうの個所が始まります。パウロは、だれひとりとして自分のために生きるのではなく、キリストのために生きるという人生観から、同じように主に結ばれた信徒たちをどういう観点で見ているのか、ということを述べます。それは、人間的な観点から人を見るのではなく、主と結ばれて新しくされた被造物としてその人を再発見するということです。ここで大切なことは、過去のその人の罪でもなければ、過去のその人の業績を見るのでもありません。キリストによって新しくされた人として、その人を発見し、受け入れることです。
パウロがそのことを話題にするのは、自分のこともそのように見てほしいという思いがあったからでしょう。パウロの過去は、最初に選ばれた十二弟子ではなかったというばかりか、最初はキリスト教に反対し、多くのクリスチャンたちを迫害する者でした。そういう人間的な評価でパウロを計れば、使徒として自分を名乗るパウロを疑う者もいたことでしょう。現にコリントの教会では、そのようにパウロを見下していた者たちもいました。
しかし、パウロにとって大切なことは、キリストと結ばれることで、古いものが過ぎ去り、新しく造られたものとして、キリストのために生きるということです。そういう観点から互いを見出し、受け入れることをパウロは願っています。
ここにはパウロ自身の中で起こった変革も言い表されています。事実、パウロは人間的な観点からイエス・キリストを十字架で処刑された犯罪人とみなしていました。しかし、キリストを信じる今は、イエスを犯罪人ではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方としてキリストを見出し、キリストを信じるひとりひとりを、このお方によって新しく生まれ変わったものとして受け入れることができるようになったのです。
そして、このように生きることができる道を開いてくださったのは、いうまでもなく、神ご自身の働きです。神はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、そればかりか、その和解の務めをパウロたちに委ねてくださったのです。
その和解の奉仕を委ねられたパウロは、自分のことを「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。番組の冒頭で述べたように、英語訳聖書では古くからこの個所を、「キリストために大使の務めを果たす」と訳しています。もちろん、現代的な意味での「大使」とは意味が異なりますが、神から遣わされた使者という点では、現代的な意味での大使に劣らない務めの重さです。
しかし、もっと大切なことは、遣わされた者であるという点で、この務めは神に対する忠実さが求められているということです。神からこの和解の務めを委ねられた者は、誰一人として、自分の都合で、この務めを変えることはできません。相手が神からの和解を素直に受け入れないとしても、務めを忠実に果たすことが、使者には求められています。相手が素直であるか、手ごわい相手であるかは、この務めを委ねられた使者が判断して、務めに熱心になったり、なかば諦めでの気持ちで務めを遂行するというものではあってはなりません。
それと同時に、それは、使者を迎える側にも真摯さが求められます。遣わされてきたその人を見るのではなく、その人を遣わしたお方をそこに見出し、その人を遣わしたお方のメッセージに真剣に耳を傾けなければなりません。
パウロがこのことを書いているのは、やはりコリント教会での事情があったからでしょう。コリント教会のある人たちは、使徒としてのパウロに疑いや軽蔑心を持つ人たちがいました。しかし、パウロが願っていることは、使者であるパウロを通して勧めておられる神の和解に、コリントの教会の人々が真摯に応えてほしいということです。
このことはコリント教会とパウロとの間での問題でありますが、しかし、現代の教会にとっても大切なことです。