2017年4月27日(木) キリストの愛こそ動機(2コリント5:11-15)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会といえども、そこに集まっているのは人間です。それも、完全な人間ではありません。そもそも完全な人間であるなら、救いそのものを必要としません。不完全であるからこそ、救いを必要としているのです。
では、救いを求めて教会にやってきて、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた途端に、立派な人間になるのかというと、それも違います。救いの完成へと向かって、確実な一歩を踏み出したばかり、といったところでしょう。
そういう意味で、キリスト教会の中にも人間的な問題が起こってくる可能性はいくらでもあります。教会の中で起こるそうした人間的な問題の中で、教会にとって一番痛手となるのは、牧師と信徒との間におこる争いです。もちろん、牧師の側に大きな落ち度があって、そのために信徒から反感を買ってしまうというのは論外です。そうではなくて、ちょっとした噂や誤解によって、信徒が牧師に対して不信感を抱いてしまった場合、その関係を修復するには大変な労力を要します。
パウロがコリントの教会で経験したことは、それに似ていたかもしれません。パウロに大きな落ち度があったというわけではないにもかかわらず、コリントの教会では、パウロが使徒であるということに対して、不信感を増大させていった人たちがいたようです。そういう事情があって、この手紙はかなりの部分を充てて、使徒の働きがどんなものであり、自分が福音に仕える使徒であることを弁明しています。今日取り上げる箇所もその続きです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章11節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
前回学んだ個所で、使徒としてのパウロは、この地上生きるにしても、死んで主のもとへ行くにしても、ただひたすら主に喜ばれるものでありたいという願いを語りました。それは、最後の審判を視野に入れた、パウロの真摯な生き方です。
きょう取り上げた個所でも、やがては主の御前に立つわたしたちである、という視点は続いています。パウロは「主に対する畏れを知っているわたしたち」と語りだします。すべてをご存じであられる神の御前にいつでも立っている自分を意識しています。過大評価も過小評価もなさらない、それこそありのままをご存知のお方の前で、パウロは心を込めてこの手紙を書いています。
パウロの願いは、コリント教会の人々に自分を何か偉いもののように過大評価してほしいということではありません。神ご自身がパウロを知っているのと同じように、等身大の自分を知ってもらいたいという願いです。
ところで、神が自分をどう見ていらっしゃるかは、本人の良心が一番よく知っていることです。偽りのない良心をもって自分を顧みる時、そこにはありのままの自分がいます。それと同じように、コリントの信徒たちの良心にも自分がありのままの姿で映ることをパウロは願っています。これは、またもや自分を自己推薦しようとしているのでは決してありません。
自己推薦したり、自分を過大に見せようとしているのは、むしろパウロをあしざまに言ってコリント教会を混乱させている偽教師の人々です。彼らが外面の誇りを高く掲げるのに対して、パウロは神がご存知である自分、神の目に映るありのままの自分をもってよしとしています。誇るとすれば、そのありのままの自分しかないことを誰よりもよく知っているパウロだからです。
では、ありのままのパウロはどういう人だったのでしょうか。そのパウロを人々は「正気でない」と中傷したのかもしれません。実際、人々の目にはパウロの行動は時としてそのように映ったのかもしれません。
使徒言行録に中に、機会を与えられたパウロが、アグリッパ王の前で自分の信仰について弁明する場面が記されています(使徒225:13-27:32)。その時同席していたフェストゥス総督はパウロに向かって「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、頭がおかしくなったのだ」と大声で言ったとあります。
それは偽りのないフェストゥスの見立てであり、パウロに対して同じような思いを抱いていた人はほかにもいたのでしょう。そして、そういう自分に対する評価はパウロの耳に何度となく届いていたことでしょう。
しかし、パウロは外面的には「正気ではない」「頭がおかしくなった」と見える自分の内面を見てほしいと語ります。それは神に対する熱心からくるものであり、決してコリントの教会の人々に対して、正気を失っているのではありません。パウロ自身の言葉によれば、パウロを突き動かしているものは「キリストの愛」にほかなりません。正気とは思えなパウロの行動も、「キリストの愛」という観点から見れば、極めて正常な行動なのです。
ここでいう「キリストの愛」という表現は、「キリストに対するパウロの愛」とも取れなくはありませんが、第一義的には、「パウロに対するキリストの愛」ということでしょう。何よりもそのキリストの愛は、人間の罪に対する償いのためにご自分を身代わりとして捧げられた十字架の死の中にもっとも鮮明に表れています。パウロにとってキリストの死は、自分に対するキリストの愛にほかなりません。キリストの身代わりの死の中に、自分の死を重ね、キリストともに自分は死んだのだと自分を理解します。しかし、パウロの生涯はキリストとともに死ぬことで終わるのではありません。復活されたキリストの命にともに生きることの中にこそパウロの生涯はあります。そういう意味では、「キリストの愛」は、パウロのために死んでくださったキリストを愛して生きるパウロの愛でもあります。キリストの愛に生き、キリストを愛してやまないパウロこそ、まことの使徒として立てられたその人なのです。
その生き方は、わたしたち主イエス・キリストを信じるわたしたちの生き方でもあります。