2017年4月20日(木) 地上で信仰に生きる大切さ(2コリント5:6-10)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「早く天国に行きたい」という言葉をよく耳にすることがあります。その言葉の背景にはいろいろな思いがあります。ある人は、地上での苦しみから早く逃れたいという気持ちから、天国への憧れを言葉にします。また他の人は、この地上での生活が不満だというわけではないのですが、より素晴らしいものがあるなら、早く見てみたいという気持ちからその言葉を口にします。

 確かにどちらも自分の素直な気持ちを表現した言葉で、そのこと自体は決して非難されるべきことではありません。ただ、この地上での生涯に意味などないからだとするのであれば、それは聖書が教えるクリスチャンの生活とは違っているように思います。

 きょう取り上げようとする個所で、パウロは天の御国で主とともにあることへの憧れを言い表すとともに、この地上で積極的に生きることの大切さをも述べています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 パウロは、新しい契約に仕える僕として、福音を宣教する自分について語ってきました。その働きを担うパウロ自身は、土の器にすぎませんが、しかし、この土の器に盛られた福音は将来の栄光に関わる宝です。あえてこの土の器を用いて、宝を盛るところに、神の偉大な力が鮮明に表れています。そのような神の偉大な力に身を任せているからこそ、様々な艱難に直面してもパウロには失望や落胆はありません。

 そればかりか、キリストの福音そのものが復活の命に関わる内容です。復活のキリストの命にあずかって、やがて世の終わりの時には、自分自身も復活する希望が与えられています。その意味でも、パウロには、現実の苦しみとは裏腹に、希望があります。ですから、前回取り上げた個所で、パウロはこう述べました。

 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます(2コリント4:16)。

 その文脈の中で、パウロはさらに終末への期待を述べました。そこまでが、前回の取り上げた個所で述べられていたことでした。

 前回取り上げた個所の最後で、パウロはこう締めくくりました。

 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えてくださったのです(2コリント)。

 一方で終末の完成の希望に目を注ぎながら、他方ではまだそこへと至っていない現実に対して、神が聖霊という保証を一人一人に与えてくださっているという安心を語っていました。

 きょう取り上げる箇所では、終末の時に実現される救いの完成から、もう一度、地上での生涯に目を向けます。

 復活の希望も、聖霊の保証も、確かに地上でのどんな艱難をも乗り越えさせる大きな力です。そのことを受けて、今日の個所はこう始まります。

 「それで、わたしたちはいつも心強いのです」

 しかし、そう述べた直後に、地上での現実を続けてこう語ります。

 「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」

 終末の希望の確かさは言うまでもないことですが、しかし、現実をもしっかりと知ったうえでの信仰生活です。パウロは地上で生きる信仰者を「主から離れている」と表現します。もちろん、これは主と直接顔と顔とを合わせて過ごすことができないという意味で、そう語っているにすぎません。

 同じような意味合いの表現を、パウロはフィリピの信徒への手紙の中でも使っています。

 「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(フィリピ1:23-24)

 ここでも、地上での生活があたかもキリストから離れているような表現です。しかし、それはあくまでも直接的な意味でのことです。

 信仰的な意味では、復活のキリストが約束してくださったように、キリストご自身が世の終わりまでいつもわたしたちとともにいてくださるのですから(マタイ28:20)、主から離れているわけではありません。

 パウロ自身、テサロニケの信徒への手紙一の5章10節でこう語っています。

 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

 この地上での生涯も、また地上を去ったのちの生涯も、クリスチャンにとって主から離れた生活などあるはずもありません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、この地上で味わう主とともにある人生は、救いの完成の時に顔と顔とを合わせて主にまみえる人生とは同列ではありません。この地上では天国の前味を味わっているにすぎません。

 では、この地上で生きることに何の意味もないのでしょうか。そうではありません。パウロは一方では主のみもとへ行って主とともに住むことを強く願いながら、決して、地上の人生が空しいものであるとは語りません。信仰的な意味では、地上の生涯も、地上を去って主のもとへと召された生涯も、どちらも主とともにある人生です。そうであればこそ、パウロはこう言ってはばかりません。

 「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(2コリント5:9)

 地上での生涯に意味がないのではなく、この地上で主に喜ばれるように生きることこそが、クリスチャンにとっての生きがいなのです。いえ、神はすべての人にそう生きるようにと望んでいらっしゃるのです。