2017年3月23日(木) 新しい契約がもたらす大胆さと自由(2コリント3:12-18)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 映画には予告編というものがつきものです。やがて上映される映画のハイライトシーンを上手に見せて、観客の関心を惹きます。しかし、どんなに優れた予告編でも、それを見ただけで満足する人はいません。

 旧約聖書を予告編に例えるのは失礼な話かとは思いますが、イエス・キリストは「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とおっしゃっています。旧約聖書を読んで、イエス・キリストへと導かれないとしたら、それは、映画の予告編だけを見て、満足しているようなものです。新約聖書のヘブライ人への手紙では、「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」とさえ言っています(ヘブライ10:1)。本体そのものであるイエス・キリストに出会わないで、影だけを見て満足しているとしたら、これも本末転倒です。

 きょう取り上げようとしている箇所で、パウロは、古い契約に仕えるモーセと新しい契約に仕える自分とを引き続き対比しながら筆を進めています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 3章12節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 前回に引き続き、律法の記された石板を神から授かったモーセの話を旧約聖書から引きながら、パウロは独自の解釈で新しい契約の優れた点を述べています。

 パウロは、出エジプト記の34章29節以下に記されたエピソードの中に、光っていた自分の顔に覆いをかけたモーセの話を見出します。出エジプト記自体には、なぜ、モーセが自分の顔に覆いをかけたのか、その理由が明確に記されているわけではありません。そこには、自分の顔が光っていることに気が付かないモーセを見て、民たちが恐れて近づくことができなかった、とは記されています。しかし、民の恐れを取り除くために、モーセは光り輝く自分の顔に覆いをかけたのかというと、そうではありませんでした。恐れで近づくのをためらうイスラエルの民たちを呼び寄せ、主から聞いた言葉を語り伝えた後で、初めてモーセは自分の顔に覆いをかけています(出エジプト34:33)。もし、民の恐れを取り除くためであったとするなら、まず、顔に覆いをかけて隠してから、民を呼び寄せ、主の言葉を語り聞かせたことでしょう。

 その後も同じように、モーセは神と語るときには民の前に出るまでは覆いを外していました。この書き方からすれば、一見、民と会う前には覆いを再びしていたように思えます。しかし、その個所を正確に読むと、神から命じられた言葉を取り次ぐモーセの顔が光っているのを民は目撃したと聖書には記されています。つまり、最初の時と同じように、民に語り終えたあとで、再び覆いをかけたということでしょう。

 このモーセの不思議な行動を、パウロは、こう解釈します。

 「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けた」と(2コリント3:13)。

 語り終えた後には消えてしまう顔の輝きを、モーセは民に見えられないように、隠したというのです。

 それに対して、パウロは新しい契約の栄光は、決して消え去るようなものではなく、むしろ、永続するものは、なおさら栄光に包まれているはずですから(2コリント3:11)、そのような覆いで隠す必要はないと、新しい契約に仕える者の優位性を力説します。

 古い契約が新しい契約の前で不十分なのは、そればかりではありません。古い契約を聴く者たちにも問題がありました。モーセの顔に覆いがかかっているというばかりか、パウロは律法を聴く者の心にも覆いがかかっていることを指摘しています。パウロはこの覆いを、「キリストにおいて取り除かれるもの」(2コリント3:14)、「主の方に向き直れば」取り去られるものと述べています(2コリント3:16)。

 古い契約は、イエス・キリストにおいてこそ、その意義がはっきりと理解されるものなのです。古い契約は決してそれ自体が意味のないものではありませんでした。しかし、イエス・キリストを抜きにして、古い契約に頼ろうと固執するならば、神の救いの計画の全体を理解することができなくなってしまいます。聖書はこのことを様々な比喩で表しています。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、律法はキリストのもとへと導く養育係のように描いています(ガラテヤ3:24)。あるいは、冒頭でもご紹介した通り、ヘブライ人への手紙では、律法は本体であるキリストの影のように描かれています(ヘブライ10:1)。

 キリストが現れ、キリストと出会い、キリストを信じて受け入れるときに、新しい契約の中に生きることの素晴らしさ目を開かれるのです。

 パウロはここからさらに筆を進めて、新しい契約に生きることの素晴らしさについて書き記します。

 パウロはさきほど、「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と書きましたが、その「主」とは「主の霊」、つまり、主が派遣する霊であることを明らかにします。そして、主の霊のおられるところに自由があることを強調します。古い契約に生きる者たちが、いつまでも心に覆いをかけられ、過ぎ去っていく栄光に気が付かないのとは対照的に、新しい契約に生きる者たちには、心の覆いが取り除かれて、罪の束縛から解放されて生きる自由が与えられるのです。

 さらに、この自由の恵みにあずかる者たちは、モーセの消えゆく顔の輝きと違って、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく恵みに生かされるのです。

 キリストがもたらした新しい契約にあずかるとは、この自由と栄光の恵みの中に生かされることです。