2017年3月16日(木) 新しい契約に仕える栄光(2コリント3:7-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「旧約聖書」、「新約聖書」という言葉があります。クリスチャンでなかった頃のわたしは、そんな区別すら知りませんでした。初めて聖書を自分の手に取って読んでみて、聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があるのだということを知りました。もっとも、知ったといっても、何故、一方を「旧約」と呼び、もう一方を「新約」と呼ぶのか、その明確な理由が分かったわけではありません。確かに、書かれている内容から判断して、一方は、より古い歴史が書かれていることはすぐにわかりました。
また、一方にはイエス・キリストは登場しませんが、他方には「キリスト」という言葉が数えきれないほど登場してくるというのも、読んですぐにわかりました。
わたしが初めて聖書を読んで理解できたことは、この程度のことでした。なぜ、この二つが、「契約」の「約」という字を伴って呼ばれるのか、そこまでは考えも及びませんでした。
しかし、今、改めて考えてみると、一方を「旧」と呼び、他方を「新」と呼ぶのは、明らかにこれはキリスト教的な名称だということです。おそらく、今でもユダヤ人たちは、自分たちの聖書に「旧」という文字をつけて呼ばれることに、腹立たしさを感じているに違いありません。しかし、やはりこの旧と新の区別にこそ、キリスト教の本質があるのだと思います。
「新しい契約」という言葉自体は、旧約聖書の中にも出てくる言葉ですが、神との新しい契約の締結をイエス・キリストのうちに見出したのが、キリスト教ということです。
さて、今学んでいるコリントの信徒への第二の手紙の中で、パウロは、この新しい契約に仕える務めについて、語っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 3章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
前回の学びでは、パウロこそが新しい契約に仕える使徒として立てられた者であるということを学びました。その証拠を上げるとすれば、コリント教会に集う信徒たちこそが、そのことを雄弁に証する確かな推薦状だ、ということでした。
そこで、きょう取り上げる箇所では、その新しい契約に仕える務めが、どれほど栄光に富んだものであるのか、パウロは、旧約時代のモーセと対比しながら、そのことを語っています。
旧約聖書の中には、主である神との「契約」に関して、一度ならず登場してきます。洪水の後、神がノアと結んだ契約がそうであり(創世記9:9-13)、アブラハムと結ばれた契約がそうであり(創世記17:1以下)、時代が下って、ダビデと結ばれた契約がそうでした(サムエル下7:8-16, 歴代誌下7:18)。しかし、何といってもモーセを通して結ばれた契約は、旧約聖書全体を通して、イスラエルの民全体に大きな影響を与える契約でした(出エジプト24:1以下)。そういう意味で、パウロはここで、新しい契約に仕える者とモーセと対比させながら、筆を進めてます。
パウロは特に出エジプト記に書かれている、シナイ山で神から十戒の石板をモーセが授かった時の話(出エジプト34:29以下)と対比させて、新しい契約に仕える務めの偉大さを描いています。
パウロはモーセの時代の契約を「石に刻まれた文字に基づく」ものと言い、その務めは死に仕える務めであると呼んでいます。確かに、パウロによれば、律法は罪を明らかにし、罪の自覚を呼び覚ますだけですから、その意味でモーセの契約は死に仕える務めということができます(ローマ3:20, 7:9-10)。しかし、それにもかかわらず、その律法を神から授かったモーセの顔は、栄光に輝いていました。
もしそうであるとするなら、霊に仕え、人を義とし、人を生かす新しい契約に仕える務めが、なおさらのこと栄光に満ちていることは、言うまでもないことです。
確かに、モーセを通して与えられた律法は、罪を指摘するというにとどまらず、律法違反に対しては死をもってそれを償ういことが要求されているのですから、まさに死に仕える務めといえるでしょう。
しかし、モーセを通して与えられたのは、そうした道徳律法だけではありませんでした。罪を犯す者に対しては、身代わりの動物犠牲の供え物で罪を贖うことができるという福音も含まれていました。ただ、それはやがて来る救い主イエス・キリストの救いの業を指示しているに過ぎません。やがて来るべきものの影という点で、永続するものではありません。本体が表れた時には、影にすぎない者は消えていくよりほかはありません(ヘブル10:1, 18)。
もちろん、パウロは古い時代の契約を全く否定してるのではありません。事実、そこにも栄光が伴っていたことは、否定することのできない事実だったからです。しかし、新しいものが現れたとき、しかも、古い契約にまさる新しものが現れたとき、もはやその栄光は輝きを失っていくしかないのです。
いえ、古い時代の契約にさえ輝きがあったのだとすれば、それに勝る新しい契約に栄光が伴わないはずはありません。人を義とし、人を生かして救う務めなのですから、当然のことです。
パウロにとって、人々から浴びせられる様々な誤解に満ちた非難は、この務めの大きさを思うときに、ほんのちっぽけなことでしかなかったことでしょう。今の時代にも大胆に福音が宣べ伝えられているのは、この務めの重要さが、その務めを担う者たちの心を励ましているからです。