2017年3月9日(木) 使徒としての推薦状(2コリント3:1-6)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 牧師になるためのプロセスは、教派によって多少の違いはあるかもしれません。わたしが所属している日本キリスト改革派教会では、神学校での専門的な学びを終えた後に、牧師になるための試験が課せられています。しかし、試験に合格したとしても、すぐに牧師になれるわけではありません。1年間は先輩牧師の助言をうけながら、訓練期間を過ごすことになっています。しかし、ようやく任職されたからといって、特別な資格証や免許証が発行されるわけではありません。

 資格を証明する身分証がない、という点では、初代教会の使徒たちもそうでした。だからと言って不便があるわけではありませんが、時には、そのことで教会のトラブルに巻き込まれてしまうことがあったようです。今学んでいるコリントの信徒への手紙を書いたパウロがまさにそうでした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 3章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

 きょうの個所には「推薦」あるいは「推薦状」という言葉が繰り返し出てきます。「推薦状」と翻訳された単語は「書簡」という意味の言葉ですが、前後関係から判断して、ただの手紙ではなくて、「推薦状」あるいは「紹介状」のことを言っていることは容易に推測することができます。

 実はこのコリントの信徒への第二の手紙全体には、「推薦」という言葉が、パウロのほかの手紙と比べて繰り返し出てきます(5:12; 10:12, 18; 12:11)。そのこと一つを取り上げても、この手紙の執筆背景にある問題が見えてきます。つまり、コリント教会がパウロに対して、パウロが使徒であることを疑っていたか軽視していたのではないか、ということです。そして、パウロが自分が選ばれた使徒であることを反論すればするほど、自己推薦をしているという非難を浴びせたのでしょう。

 「またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」という3章の書き出しは、そういったコリントの教会の人たちの非難を想定した言葉です。

 確かに、パウロは十二弟子の一人ではなかったという意味では、本当の使徒ではないということを言い出す人もいたかもしれません。しかし、そうであるとすれば、十二弟子以外の「使徒」と呼ばれる人物は、皆、疑いの対象となってしまいます。けれども実際には、コリントの教会では、十二使徒以外の働き人でも受け入れられていました。たとえば、アポロがそうでした(1コリント1:12)。そうであるにもかかわらず、パウロに対する風当たりは相当なものであったようです。

 少し先取りして、手紙を読み進んでいくと、13章3節でパウロはコリント教会のある人たちのことをこう記しています。

 「なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。」

 パウロが語っていることが、キリストの教えであるかどうかを疑っているのですから、これはパウロにとっては最大の侮辱です。しかも、自分がキリストから遣わされた使徒であることを強調すればするほど、またも自己推薦がはじまったとばかり、露骨な態度を示したのでしょう。

 ところで、「またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」とパウロが書いているのは、直前のところで、自分の使徒としての働きについて、こう書いているからです。

 「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(2コリント2:17)

 使徒職について熱く語るパウロに対して、冷ややかな反応を見せるかもしれないコリントの教会員たちに対して、先手を打って「またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」と問いかけています。

 おそらく、その問いかけに対して、「そうだ、お前は自己推薦をしているだけにすぎない。本当に神から遣わされたものであるとするなら、第三者がお前を推薦してくれるはずだ」と言いかねません。パウロはそうした反応をさらに見越して、「推薦状」のことを先取りして話題にします。

 実際、パウロはクリスチャンになる前、大祭司からの書状を取り付けて、クリスチャンたちを迫害していました。いわば、自分がしていることは、大祭司も太鼓判を押すほど、神の御心にかなったものである、という推薦状です。そういう意味では、パウロ自身、推薦状がどれほど大切なものであるかを知っていました。

 クリスチャンになってからも、パウロは誰かを教会に紹介するとき、手紙を書いていました。たとえば、ローマの信徒への手紙の中で、ケンクレイアの教会の奉仕者でもあるフェベを迎え入れてくれるようにとローマの教会の信徒へ宛てて書いています(ローマ16:1)。ここでパウロが使っている「紹介します」という言葉は、「推薦」という言葉と同じ言葉です。そういう意味で、パウロは「推薦」することの大切さをクリスチャンになってからも知っている人でした。

 しかし、ことコリントの教会の人たちに対しては、使徒としての権威を証明するために、自薦他薦を問わず、そのような書状を必要としないと明言しています。それは、コリントの教会の存在そのものが、パウロがキリストから遣わされた使徒であることを、何よりも明らかに証明しているからです。それは、人が書いたどんな推薦状よりも、パウロの使徒職を雄弁に証しています。

 もちろん、パウロはここで自分の伝道の結果を自慢しているのではありません。「独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。」とパウロが書いているとおりです。

 「わたしたちの資格は神から与えられたものです」。こう語るパウロは自慢でも自己推薦でもなく、謙虚にその事実を語っています。神が選んでくださったからこそ、働きの実りを見ることができるのです。そして、その実りこそが、紙に書かれた文字ではない推薦状だというのです。

 これを逆に信徒の立場で言い換えれば、わたしたち信徒の存在こそ、福音宣教に携わる人たちの確かさを紹介している推薦状なのです。