2017年2月2日(木) 神の恵みの下で(2コリント1:12-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
善意が誤解される、ということは、人間社会の中でとても残念なことです。そして、誤解される本人にとっては、とても悲しい経験です。もし、神のように人間の内面までも見通すことができる能力が、人間にも備わっていれば、誤解など生じるはずもありません。しかし、それはそれで恐ろしいことでもあります。自分の心の内が知られてしまう中で、人は平安でいられるはずはありません。だれでも胸に手を当てて自分を省みれば、心の内が人に見せられるようなものではないことはわかりきったことです。心の中が読めないというのは、罪ある世界にあっては、ある意味、恵みであるかもしれません。
しかし、それにしても、善意が誤解されたり、あるいは誤解されそうになった時には、誠実さを弁明せざるを得ません。きょう取り上げる箇所で、パウロは自分の誠実さを弁明しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 1章12節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
この個所だけを読むとすると、いったい何をパウロはくどくどと書いているのか、わかりにくいかもしれません。特に初めてこの手紙を読む人にとっては、かえってストレスに感じるかもしれません。耳でこの手紙が朗読されるのを聞いたコリントの教会の信徒たちが、すんなりと理解できたとは思えません。少なくとも、なぜこのようなことをパウロが書いているのかは、もう少し先を読まなければ、出てこないからです。
少し先取りして、この手紙のあらすじを追っていくと、どうやらパウロはコリントに足を運ぼうと計画を立てていたようです。その計画とは、来週取り上げようとしている15節以下によれば、まずはコリントに直行して、それからマケドニア州に赴き、再びコリントに戻って、そこからユダヤに送り出してもらおうという計画だったようです。
ところで、コリントの信徒へ宛てた第一の手紙によれば、パウロはこの最初の手紙を書いた時点では、五旬祭まではエフェソで過ごした後、マケドニアを経由してコリントに赴き、そこで冬を越したいという計画がありました(1コリント16:5以下)。この計画に関しては、手紙でコリントの教会に書き送っているわけですから、コリントの教会の信徒たちには知れ渡っていたはずです。
パウロが第二の手紙で書いている計画は、それとは違っていて、コリントに直行するわけですから、コリントの教会を優先させていることになります。ただ、問題は、なぜマケドニア州の教会に立ち寄ることを後回しにして、コリントの教会へ先に行くことにしたのか、ということです。それは、おそらくは、コリントの教会が抱えていた問題をいち早く解決したいという思いがあったからでしょう。
この手紙をさらに読み進めていくと、「あのようなことを書いたのは」(2:3)とか「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(2:4)などと書いているところから推察すると、パウロは、問題解決のためにほかの手紙も書いていたことがわかります。
おそらく、変更された計画のことは、それらの手紙によって知らされていたのでしょう。しかし、問題は、この手紙を書いている時点で、その計画は実現していないということです。パウロは「わたしがまだコリントに行かずにいるのは」と書いています(2コリント1:23)。最初の計画を変更してまで、コリントの教会を先に訪問する、と言っておきながら、実際にはまだ来ていないとすれば、コリントの教会には、パウロに対する不信感が募ってきたかも知れません。
そういう事情が背景にあって、きょうの個所がまわりくどいような書き出しで始まっているのです。
パウロは不信感を抱いているかもしれないコリントの教会員に対して、三つのことを述べています。
まずは、自分の行動原理についてです。パウロは宣教のため、また教会を建て上げるため、各地をめぐって伝道活動を行ってきましたが、それらは、決して自分の思いによって計画し、行動してきたのではない、ということです。人間的な思いや知恵からではなく、神の恵みの下で誠実に行動をとってきたということです。このたびも、計画についても、気ままな変更でもなければ、また、その計画が速やかに実行されないのも、決してパウロの人間的な思いがそこに優先されているからでもない、ということです。パウロの行動の原理は、神の恵みもとで、神の御心を優先させようとする行動の原理です。結果は誤解を招いたとしても、決して、そこにパウロの人間的な思いが介在していたのではありません。
第二にパウロが述べていることは、自分が今まで書いた手紙にも、また、この手紙にも、読んで理解できる以上の裏がないということです。隠されたメッセージもなければ、わざと真意を不明瞭にする書き方もしていない、文字通りの意味で読んでほしいということです。とかく、人間は疑い始めると、一文字一文字に裏の意味があるのではないか、何か欺くような意図が隠されているのではないかと、いっそう疑り深くなってしまいがちです。しかし、そのような疑う心で手紙を読むのではなく、神の御心を純真に願う、善意をそこに読み取ってほしいという願いです。
第三にパウロが述べていることは、コリントの教会の人たちへの信頼です。もとより、コリントでパウロは1年6ヶ月滞在して、腰を据えて伝道に励みました(使徒言行録18:11)。自分が育て上げた教会をパウロ自身が否定したとすれば、それは、もとより自分自身の否定にもつながります。パウロの願いは、この教会が主の再臨のときに、主の御前に立ちうる教会であり続けることです。そして、そのようにパウロは確信しています(1コリント1:8-9)。
であればこそ、コリントの教会はパウロにとって誇りということができるのです。このことは、コリントの教会の人たちにとっても同じです。終末の時、ともに来臨のキリストの前に立つ、コリントの教会員とパウロです。そういう相手として相手を愛のまなざしで見る時に、そこには人間的な批判は入り込む余地がありません。パウロがコリントの教会員たちを誇りと思うように、コリントの人たちもパウロを誇りと思うことができるはずです。
パウロはこの手紙を書くにあたって、決して、人間的な思いで、相手を説得しようとは思っていません。そうではなく、神の御前で謙虚に、そして誠実に、あるがままを述べています。それこそが、誤解を解く最善の方法です。神を間に立て、謙虚に誠実に相手と接するとき、相手の心も開かれてくるのです。