2017年1月26日(木) 苦難の中で得たもの(2コリント1:8-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
苦しみに遭うこと、これは決して嬉しいことではありません。苦しみに遭わずに生涯を終えられるなら、それに越したことはないと、誰もが考えます。
しかし、苦しみに遭うことが、人生にとってマイナスのできごとか、といえば、必ずしもそうではありません。苦しみを経験することで、人生について深く考えたり、他者とのかかわり方が、より深まったり、プラスに作用することもたくさんあるからです。
特に信仰者にとっては、苦難が信仰を増し加え、神に対しての信頼を一層深めていくという積極的な意味もあります。旧約聖書の詩編の中には、こんな信仰者の言葉があります。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119:71・口語訳)
多くの苦難を体験したパウロも、苦難の積極的な意味について語っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 1章8節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。
前回、学んだ個所で、パウロはこう記していました。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(2コリント1:4)
そこでは「あらゆる苦難」という漠然とした言い方がなされていましたが、今日の個所では、もう少し特定の出来事を念頭に置いて筆を進めています。
「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。」
もっとも、場所も時も特定できるほど具体的な書き方はしていませんので、使徒言行録や他の書簡で記されている具体的な苦難と照合することはできません。比較的最近起ったことを書いているのだとすれば、この手紙を書く少し前に滞在していたエフェソでは、アルテミスの神殿とそのご神体をめぐって、パウロの同行者が群衆の起こした騒動に巻き込まれるという事件がありました。そのことを記した使徒言行録19章は、その事件を「ただならぬ騒動」(19:23)と記しています。暴動に近いこの騒ぎは、死の危険を感じるには十分だったかもしれません。もっとも、パウロ自身がこの騒動に直接巻き込まれたというわけではありませんでしたので、別の出来事のことかもしれません。
コリントの信徒へ宛てたもう1通の手紙には、「エフェソで野獣と戦かった」(1コリント15:32)経験について触れていますから、あるいは、そのことを指しているのかもしれません。もちろん、この場合の「野獣との戦い」は、文字通りの野獣との格闘ではなく、比ゆ的な表現であると考えられています。
いずれにしても、パウロ自身が時と場所について詳細には語っていませんので、これ以上のことは推測としてしかいうことはできません。パウロにとって重要なことは、特定の場所や時間ではなく、その体験した「苦難」がどういう性質のものであったのか、ということです。
パウロがその時体験した苦難は、「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失」うほどの苦難でした。パウロにとっては「死の宣告を受けた思い」といいうるほどの苦難です。パウロはその苦難を「大きな死の危険」とさえ表現しています。十中八九、死を覚悟するほどの苦難ですから、これは苦難の度合いが違います。
そのような苦難を実際に体験して、パウロはそこからどのようなことを学んだのでしょうか。
一つには、「自分を頼りにすることなく、…神を頼りにするように」なったということです(1コリント1:9)
死を覚悟しなければならない状況というのは、自分自身がもはや頼りにならない状況です。そういう状況でパウロが得たことは、「神を頼る」ということでした。
もちろん、信仰者であるパウロは、そうした極限的な状況に直面することがなくても、神を頼りとする人でした。けれども、死を覚悟するような状況に追い込まれたとき、神を頼るということの素晴らしさを、身をもって経験したということです。しかも、そのときパウロが意識した神は「死者を復活させてくださる」お方としての神です。復活のキリストを目撃しているパウロにとっては、神はキリスト教信仰を持った時から「死者を復活させてくださる」神でした。しかし、自分の死に直面するような経験の中で、死者を復活させる神をいっそう強く意識するようになったということです。
絶体絶命と思えるような状況の中にあっても、死を超えた力を持っておられる神を意識し、その神に頼ることができるということは、苦難の中でこそ実感できることです。
パウロが苦難の中で学んだことは、それだけではありません。それがただ単に、いっときの「苦しいときの神頼み」に終わらなかったということです。この経験を通して、これから先起るかもしれない様々な苦難に対しても、恐れを抱くことがなくなったということです。救いを確信して、恐れずに歩むことができるということは、信仰を持つ者の特権です。パウロはローマの信徒への手紙の中でこう書いています。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:31,35)
死さえも、キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのですから、これから将来起るどんなことに対しても、恐れを抱く必要はありません。パウロはそのことを確信することができました。
さらに、もう一つ。このことはパウロ一人の経験に終わらないということです。パウロのために祈ることを通して、パウロが確信した神の救いの確かさを、共に味わうことができるということです。パウロはこの手紙の受取人であるコリントの教会の信徒たちに、そのような信仰の恵みにあずかることを期待しています。そして、この手紙を読む私たちも、苦難の中にある信徒たちを覚えて互いに祈り合うときに、この信仰の恵みに共にあずかるようになるのです。