2017年1月12日(木) 完成の時を待ち望みつつ(2ペトロ3:14-18)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読むときに、二つのタイプの大きな誤解があるように思います。一つは、聖書に書かれていることは、ほとんどが作り話で、人間が人間を律するために生み出した知恵の書にすぎないという誤解です。

 もう一つのタイプの誤解は、聖書に書かれていることを神のみ言葉としてまじめに受け取りながらも、しかし、神による自分への裁きしかそこに書かれていないという誤解です。これでは、聖書を読めば読むほど自分に絶望してしまい、同じ聖書に語られてる救いへの招きを聞くことができません。

 どちらの誤解も、せっかく用意された救いの恵みから、自分自身を遠ざけてしまう結果に終わり、とても残念な聖書の読み方です。

 ペトロの手紙の学びも、きょうで最後になりますが、この手紙にはところどころ厳しい言葉もありました。しかし、手紙全体のメッセージは、決してこの手紙の読者を裁きの恐怖へと陥れるものではありません。きょう取り上げるのは、手紙に結びの部分です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 3章14節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

 ペトロはこの手紙を締めくくるにあたって、最後の勧めの言葉を記しています。それは、信仰の道を堅実に歩むために必要な愛に満ちた励ましです。

 ペトロは、3章に入ってから、「愛する者たち」という言葉を、ここを含めて4回繰り返しています。ペトロにとってこの手紙の受取人は、主にあって敬愛する者たちです。このこと一つをとってみても、ペトロが、愛するべき一人一人に対する言葉として、この手紙を書いていることがわかります。

 そしてまた、ペトロはこの手紙を受け取る人たちが、偽教師たちとは違って、主の来臨を心から期待し、新天新地の実現を切に求める人たちであることを認めています。そうであればこそ、そのペトロは、この手紙を締めくくるにあたって、読者たちに勧めて、まずこう命じます。

 「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」

 神の御前に「きずや汚れが何一つない」という状態は、2章13節で偽教師たちが「彼らは汚れやきずのようなもの」と呼ばれていたのと対照的です。そして、何よりもペトロの手紙一の1章19節では、キリストご自身が、「きずや汚れのない小羊のよう」と表現されています。このような完全な清さを表す表現として、同様な言い回しはパウロの手紙の中にもしばしば出てきます。パウロは主の来臨を迎える信徒たちの姿を「非の打ちどころのない者」「清い者」「とがめられるところのない者」として描いています(1コリント1:8、フィリピ1:10、1テサロニケ5:23)。聖書はそのような完全さを、神に祈り求めるべき事柄であると同時に、また目指すべき目標としても描かれています。

 ペトロはそのような、きずや汚れが何一つない姿で神に見出されるよう努め励むことを読者たちに勧めています。

 それと同時に、ペトロは「平和に過ごしていると神に認めていただけるように」と加えています。おそらく、この意味は、主にある兄弟姉妹たちが、仲たがいをすることなく平和に過ごしている、というイメージではなく、「神に対して平和である」言い換えれば「神に敵対する者」としてではなく、「神と平和関係にある者」として見出される、という意味でしょう。

 ペトロはクリスチャンの目指すべき目標をしっかりと示した後で、こう続けています。

 「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。」

 これは、前回の学びでも出てきたように、主の日がなかなかやって来ない、という現実を、偽教師たちのように、主の日の遅延や延期と考えるのではなく、主が救いのために忍耐してくださっている、と捉える考え方を言い表しています。ペトロはそうした捉え方が、使徒たちの教えと一致していることを示すために、パウロも書簡の中で同じことを述べていると書いています。

 主の日が遅れているという絶望感でもなく、主の日は来ないという間違った安堵感でもなく、ここに主の忍耐深さと救いへの招きを見出して、信仰の道を正しく歩むことが大切です。

 悔い改めるべきことがあるとするならば、今を救いの時と信じて、何度でも悔い改める機会が恵み深くも与えられていると理解すべきです。絶望して投げやりになることを神は願っておられません。それは、自分に対しても他人に対してもそうです。自分に対して忍耐深く取り扱ってくださる神は、主にある兄弟姉妹に対しても忍耐深く接してくださいます。

 神の望んでおられることは、一人一人が救われて、きずや汚れが何一つなく、神と平和な関係にあることです。

 そのように忍耐しておられる神を誤解して、楽観的になりすぎたりすることも、反対に悲観的になりすぎたりすることも、どちらも自分の身に滅びを招いてしまいます。

 最後に、ペトロはこの手紙をこう結びます。

 「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」

 この言葉はわたしたち主を信じる者にとって、心に留めておくべき言葉です。「恵み」だけでもなく「知識」だけでもありません。「恵み」と「知識」は決して相反するものではありません。この両方をいただくときにこそ、健全に成長することができるのです。