2016年12月22日(木) 偽教師の本質(2ペトロ2:17-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 間違った教えというのは、どの時代どの世界にも起こりうることです。特に同じ組織の内部から出てくる間違った教えを、「異端」と呼んでいます。キリスト教会も例外ではありませんでした。すでに新約聖書の中でさえ、異端に対する警戒が呼び起こされています。今、学んでいるペトロの第二の手紙がまさにそうです。

 一口に異端といっても、純粋に教義の違いということであれば、部外者にとっては、どちらが正しいのかを判断することはほとんど不可能です。しかし、教義の違いは、しばしばその教えを信じる人たちの行動にも影響を及ぼすものです。その人たちの生きざまを見れば、その人たちが何を大切にして生きているのかがわかります。

 この手紙でペトロが注意を促している偽教師たちは、この世から見ても批判を浴びそうな人々です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 2章17節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。

 ペトロはかなりの部分を割いて異端的な偽教師の問題に充てています。もちろん、この手紙は偽教師に宛てて書かれたものではありませんから、相手を直接論駁するためのものではありません。むしろ、そのような教えの餌食にならないようにと、読者に警告を呼びかけるために書かれたものです。

 偽教師たちがどんな教えを信じていたのか、ということは、残念ながらこの手紙を読んでもほとんど知ることができません。むしろ、彼らの行状やその本質にあるものを描いて、読者に注意を呼び掛けています。

 きょうの個所では、まず、偽教師たちを描くのに二つの例えを用いています。それは彼らがいかなるものであるのか、その本質をよく捉えた例えです。

 第一に「干上がった泉」と言われます。文字通りに捉えれば、「干上がった泉」とは、かつてはこんこんと水が湧き出ていたのに、今はもう水が枯れてしまっている泉です。このたとえが、過去と現在の対比にあるのであるとすれば、偽教師たちも、かつては人の渇きをいやし、命を与える泉であったということでしょう。

 しかし、ここでは、過去と現在の対比というよりは、むしろ、泉のように見えて、実はそうではない彼らの欺瞞に強調点があるように思われます。泉というのは、本来、人の渇きをいやし、命につながる重要な役割を果たすものです。また、泉のほとりに生える草木は、青々と茂って、豊かな実りをもたらします。

 そうした役割を果たすことができないとすれば、それはもはや泉とは言えません。同じように、教えを受けた人々が永遠の命に結びつかないのだとすれば、その教えをもたらす人々は、教師のようであって、実は教師とは呼ぶことができない、干上がった泉なのです。特に渇いている者にとっては、泉の発見は、魂が生き返るほどの喜びですが、干上がった泉は、期待を裏切る失望です。まさに、偽教師が提供している教えは、魂の飢え渇きを少しも癒すことができません。

 第二に、偽教師たちは「嵐に吹き払われる霧」と呼ばれます。これも、偽教師たちの教えの本質を描いたたとえです。霧というのは視界を遮る壁のように行く手を妨げます。しかし、壁のように堅固ではなく、風が吹けば簡単に散らされてしまいます。それはふわふわと漂うだけで、何かにしっかりと根ざしているわけでもありません。偽教師たちもその通りだとペトロは言います。その教えは儚くむなしいのです。

 こうした例えで、ペトロは偽教師たちの本質を暴きながら、彼らが「無意味な大言壮語」をする者たちだと指摘します。「大言壮語」というものは、もともと無意味なのですから、わざわざ「無意味な」という必要もありません。しかし、あえてそう言うのは、その教えが全く意味がなく、空しいものでありながら、それを仰々しく、さも真理のように吹聴して回っている偽教師たちの滑稽さを描いています。

 しかも、悪質なことに、「迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑する」というのです。このことが具体的にどんなことを指すのか定かではありませんが、明らかに罪であることを、詭弁を弄しながら、あたかも罪ではないかのように、やらせてしまうとすれば、偽教師たちの責任は言い逃れようがありません。信仰に入って間もない人たちを翻弄しているとすれば、いっそうその罪は大きなものです。

 ペトロが指摘しているように、偽教師たちは、他人に自由を与えると約束しながら、自分自身が滅亡の奴隷でしかありません。彼ら自身が罪の奴隷であるとするなら、どうして他人を罪からの解放へと導くことができるでしょうか。

 ペトロは偽教師たちへの批判の手をゆるめません。彼らが、最初から義の道を知らなかった方がよかったとさえ言い切ります。

 イエス・キリストはかつて弟子たちにこうおっしゃいました。

 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 マタイによる福音書12章43節以下の言葉です。そのイエス・キリストの言葉を思い起こさせるように、ペトロは繰り返します。

 「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。」

 最後にペトロはそのような偽教師たちの本質を、犬や豚の動物の性に例えて、読者たちに警戒を促しています。

 しかし、考えてもみれば、ここまでひどい教職者に、何故人は騙されてしまうのでしょうか。これは今も昔も変わらないように思います。そうであればこそ、このペトロの手紙は重みがあるのです。