2016年12月15日(木) 偽教師の行状と行く末(2ペトロ2:10b-16)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「キリスト教会の不祥事」とネットで検索すると、ずらずらと検索結果が出てきます。「仏教の不祥事」と検索しても、同じようにたくさん出てきます。「○○の不祥事」の「○○」の部分に思いつく言葉を適当に当てはめて検索すると、ほとんど不祥事がない世界はないように思われます。それが堕落した人間の本質だからです。
しかし、だからと言って、キリスト教会の不祥事を、人間が持つ一般的な傾向にすり替えて話を濁してしまうわけにはいきません。きょう取り上げようとしている箇所には、初代教会に入り込んだ偽教師の行状と行く末があからさまに描かれています
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 2章10後半〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。
きょう取り上げた個所は、前回からの続きで、偽教師の問題が記されています。前々回取り上げた2章1節には、彼らが教会内に「異端をひそかに持ち込む」と言われていました。きょう取り上げる箇所を読むと、その持ち込まれる異端は、ただ教理的な間違いというにとどまらず、倫理的な誤りにも及ぶ様子が描かれています。
ペトロがまず指摘する偽教師の行状は、彼らの高慢さにあります。
「彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」
「栄光ある者たち」が具体的に誰を指すのかは別として、「そしってはばからない」というところに彼らの高慢さが顕著に表れています。「そしる」と訳されている言葉は、「冒涜する」とも訳せる言葉で、「そしり」にしろ「冒涜」にしろ、相手よりも自分の方が上であるという暗黙の認識がなければ、そのような行為に及ぶことは決してありません。相手に敬意を払っているうちは、決してそしったり冒涜したりすることはありえないことです。
いえ、むしろ、相手をそしるのは、自分が優位であることを印象付ける恰好の手段です。先にそしった方が、なんとなく正しいことを言っているような印象を与えがちです。栄光ある者たちをそしることで、自分たちは、その者たちよりも上の権威を持っていることを暗にほのめかしているようなものです。もちろん、そのそしりが、何の根拠もないことであれば、すぐに論破されてしまうでしょう。しかし、ペテロが非難している偽教師の場合は、すぐには論破されなかったようです。
「天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。」
そこだけを見るとすれば、天使たちの反論がないことが、偽教師たちのそしりの正しさを証明しているようにも受けとられてしまうかもしれません。しかし、たとえ天使たちが偽教師のそしりに対して、何の訴えもしないとしても、そのことが偽教師たちを正統な教師とするわけではありません。
ペトロは彼らのそしりが無知からきていることを指摘します。その上で、彼ら自身の主張とは裏腹に、彼らが滅びに向かう存在であることを告げます。
では、なぜペトロは彼らが偽教師であることを見抜くことができたのでしょうか。もちろん、神の言葉と使徒たちの教えに反する教えを伝えていたということが一番にあるでしょう。しかし、それだけではありません。その行いもまた神の御心に反するものだったからです。
ペトロがここで具体的に書き記している事柄は、口にするのも恥ずかしい事柄です。昼間から享楽にふけり、宴席で羽目を外し、姦通の相手を求め、強欲におぼれ、不義のもうけを好む人たちです。
しかし、ここまで露骨に道を踏み外した教師を、ペトロの手紙の読者たちは見抜けなかったのでしょうか。二つの場合が考えられます。一つは、ペトロがここで指摘している事柄の大半は、偽教師たちの心のうちの状態で、ほとんどの人には見抜くことができなかった、ということが考えられます。その人たちの行いが何かおかしいと思っても、なんだかんだともっともらしい理由をつけて言いくるめられてしまっていたのかも知れません。
あるいは、それとはまったく逆で、まさに偽教師たちの教理的な確信が、神の御心とは正反対のことをさせていたということもあるかもしれません。たとえば、この世はサタンに毒されているから、この世の富を奪い取って神にささげることは正しいことだ、と主張すれば、犯罪まがいの金儲けも正当化されてしまいます。肉と霊とはまったくべつものだから、霊さえ救われれば、肉の犯す罪は何の意味もないと主張すれば、どんな肉欲さえも正当化されてしまいます。
堕落した人間は悪知恵に長けています。自分のしている悪いことを正当化するためには、普通で考えればおかしな教理も、平気で生み出してしまいます。いえ、まじめに考え出された教理も、罪のためには悪用さえしてしまうのが人間です。たとえば、どんな罪も、悔い改めてキリストの贖いを信じれば、赦されない罪はない、という教えは正しいでしょう。しかし、そこから、どんな罪を犯してもよいと主張することは明らかに誤りです。
ペトロは、偽教師たちの教理的な間違いそれ自体もさることながら、その人々がどんな生き方をしているのか、そこにわたしたちの目を向けさせています。ひとたび、そのような教えの虜になってしまえば、自分たちの非常識さにさえ気が付かなくなってしまうものです。そうなる前に、神の御言葉に照らして、自分自身の生き方がまっすぐであるかを、いつも点検することが大切です。