2016年12月1日(木) 偽教師の出現についての警告(2ペトロ2:1-3)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「異端」という言葉は、あまり良いイメージの言葉ではありません。良いイメージを持てないのには、いくつかの理由があると思います。その一つは、中世ヨーロッパの異端審問につきまとう陰惨なイメージがあるからです。異なる考えを持っているという理由だけで、命の危険にさえさらされるというのは、恐ろしいことです。

 もう一つの理由は、部外者にとっては、正統も異端も所詮は内部の争いにすぎないと映るからです。確かに、部外者にとってはどうでもよい些細なことに、全エネルギーを注いで争う姿は、見ていて滑稽ささえ感じるかもしれません。

 それにもかかわらず、聖書には「異端」についての教えがあるために、これを無視して通るわけにはいきません。また扱い方を間違えれば、教会の存在自体を脅かす結果にもなりかねません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 2章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。

 きょう取り上げる個所で、ペトロは偽教師の出現について予告しています。この予告は旧約時代に偽預言が出現したという事実から導き出された予告です。もちろん、まったくその兆候が見られないうちから、偽教師の出現を予見したということではないでしょう。ペトロはその危険な兆候をいち早く察知していたと思われます。何よりも、今まで書いてきた手紙の言葉の中に「思い出させる」という言葉を繰り返してきたことからも、正しい信仰の知識を忘れ、間違った教えに落ちていく危険を、ペトロは十分に感じていたものと思われます。

 その偽教師に関して、ペトロは「かつて、民の中に偽預言者がいました」という言葉で書きだします。偽預言がいたという事自体、十分に衝撃的な事実ですが、「民の中に」という言葉が、いっそう事柄を衝撃的なものにしています。この場合の「民」というのは、神の民であるイスラエルを指しています。選ばれた神の民の中に偽預言者が生まれたのです。よそから持ち込まれたのではなく、まさに民の中に出現するところに衝撃の大きさがあります。

 それと同じように、ペトロは、「あなた方の中にも偽教師が現れるに違いありません」と述べています。外からの敵を防御するのであれば、まだ注意しやすいかもしれません。しかし、中から偽教師が生まれるとき、それに気がつき、それに対抗することはとても難しいように思われます。内部で生まれた偽教師との戦いが、群れの分裂を引き起こしてしまうかもしれないからです。そうかといって、それを放置しておけば、群れ全体が間違った教えに染まっていくことは緋を見るよりも明らかだからです。

 では、ペトロがその出現を懸念している偽教師はどんな人たちなのでしょうか。第一に、「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込」む人たちと言われています。

 ここで「異端」という言葉が登場しますが、ギリシア語の「ハイレシス」という単語は後に英語のheresy(異端)の語源となる言葉です。本来の意味は「選択する」「選ぶ」という言葉に由来していて、新約聖書の中では「派閥」や「学派」あるいは「仲間争い」を意味する言葉としても用いられています。例えば使徒言行録の5章17節で「サドカイ派」という言葉が出てきますが、そこでは「サドカイというハイレシス」という言い方がなされてます。別に「サドカイという異端」という意味ではありません。

 ここでも、単に「分派」と訳してもよかったかも知れません。しかし、この「ハイレシス」という言葉をここであえて「異端」と訳している理由は、ペトロが説いている使徒的正統的な確立している教えに対して、その集団の内部から出てきた対立分派という意味合いが強いからでしょう。それに加えて、ペトロ自身が、その分派を形容して「滅びをもたらす」と記しているからです。この偽教師の持ち込もうとしている教えの破滅的な性格から考えてあえて「異端」と訳したのでしょう。

 偽教師の第二の特徴は「自分たちを贖ってくださった主を拒否」しているという点です。「イエスこそ贖い主である」ということを使徒たちが伝えた正統的な教えと信じるキリスト教からすれば、そのような教えは、もはやキリスト教でさえありません。

 おそらく、偽教師たちはあからさまに自分たちの贖い主を否定しているというのではないでしょう。もっともらしい教えでありながら、しかし、突き詰めていくと、それは結局贖い主である主を拒んでしまう教えなのでしょう。あるいは、続く2節で記されているように、彼ら偽教師は「みだらな楽しみ」を行ったり、それを真似させる者たちですから、そのような行いが結局は罪からの贖いを成し遂げてくださったキリストの贖いの御業を否定してしまう、という意味でしょう。

 真理が彼らの教えと行いを通して広がるどころか、かえって真理が阻まれ、そしりの対象となってしまうような人々です。ペトロがこのような偽教師が持ち込む教えを「ハイレシス」と呼んでいるのは、まさにこのような教えの性格を指してのことです。

 さらにペトロは、偽教師に関する描写の手を緩めません。偽教師の特徴の中で、教会にとってもっとも致命的なのは、他の信徒たちを食い物にしてしまうという点です。自分が間違った教えに陥って、自滅してしまうというのならまだしも、他人を食い物にして、挙句の果てに自分もその人も滅びに至らしめてしまうというのです。

 けれどもペトロはそのような異端に対して、決しておののいているというわけではありません。というのは、旧約時代の偽預言者がそうであったように、必ず彼らの上にも滅びが用意されていることをペトロは確信しているからです。

 ペトロが読者に促していることは、偽教師の撲滅ではありません。偽教師に惑わされないことです。それには、使徒たちの教えを絶えず思い起こし、そこにとどまることです。偽物を研究することではなく、本物によく接することこそが大切なのです。