2016年11月24日(木) 預言の言葉に心を留めて(2ペトロ1:16-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしたちとキリストの弟子であった十二使徒との決定的な違いは、わたしたちはキリストを直接目撃していないということです。キリストについてわたしたちが知っている事柄は、すべて、使徒たちの証言に基づくものです。言い換えれば、わたしたちの信仰は、使徒たちの証言に深く結びついているということです。使徒たちの証言が崩れるなら、わたしたちの信じてきたものも崩れ去ってしまいます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 1章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 新約聖書を読んでいて、印象に残る言葉がいくつもあります。そのうちのいくつかは、イエス・キリストを知ることの素晴らしさを語っています。もちろん、その場合の「知る」というのはただ知識や情報として知るという意味ではありません。その人との深い交わりを通して知りうるその人そのものです。

 たとえばヨハネによる福音書は、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを知る喜びをこう表現しています。

 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:16-18)。

 神の恵みはもちろん旧約聖書の時代にも豊かに示されてきました。しかし、それはキリストと出会い、キリストを知った今と比べると、雲泥の差があることをヨハネ福音書の著者は語っています。それはなによりも、キリストが父なる神の姿をはっきりと示してくださったからです。そのような仕方で神がご自分を示されたことは一度もありませんでした。

 パウロも同じようにキリストを知る喜びをこう表現しています。

 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」

 キリストを知ることの素晴らしさがあまりにも大きいために、ほかのことが色あせて見えてしまうというばかりか、キリストを知らずに得てきたことが、損失とさえ思えるようになったというのです。キリストを知らないことがどれほど大きな損失となっているか、それほどパウロにとって、キリストとの出会いは大きな益のあるものでした。

 実はペトロも、この手紙の冒頭で「キリストを知る」ことの大切さをこう書いています。

 「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」

 普通の挨拶の言葉であれば、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と書けば事足りるはずです。しかし、ペトロはわざわざ「神」のみならず「わたしたちの主イエスを知ることによって」と書き加えています。イエス・キリストを知ることの素晴らしさを体験したペトロだからこそ、こう書くことができたといえるでしょう。キリストと出会い、キリストを知ったことで、今までに体験することができなかった恵みと平和を、ペトロ自身がどれほど得てきたか、そのことをこの個所は物語っています。そうであればこそ、確信をもって「わたしたちの主イエスを知ることによって」と書き加えることができたのでしょう。

 この「キリストを知る」というテーマは、この手紙の冒頭の挨拶の言葉にとどまらず、1章9節で再びこう記されます。

 「これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは…わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

 実は、きょうの個所も、この「キリストを知る」ということと密接なかかわりの中で読み解くことが大切です。

 先ほども触れた通り、ペトロはこの手紙の冒頭で、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と挨拶の言葉を述べました。ではどのようにして、キリストを深く知ることができるのか、ペトロはこのキリストを知るために、信仰から始まり、愛によって完成されるプロセスの大切さを教えました。

 しかし、その前に、キリストを知るといっても、使徒たちが体験した直接的なキリストとの出会いを期待することは、もはやわたちたちにはできません。わたしたちがキリストを知るための知識の源泉は使徒たちの教えをおいてほかにはありません。そうであれば、使徒たちの責任は重大です。

 ペトロはこう書き記します。

 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。」

 使徒たちは自分たちの教えの確かさを、自分たちが直接目にしたこと、耳にしたことにあると主張します。しかし、それだけでは使徒たちの正しさは証明されるわけではありません。彼らの目にしたもの、耳にしたものが、聖書の預言、神がかつて預言者を通して神の民に語ってきたことと一致していなければなりません。

 もちろん、この場合、聖書の預言をどう理解するか、という大きな問題があります。当然、使徒たちの教えと異なる見解を持つ者たちは、聖書の預言をも違うように理解したでしょう。それに対して、ペトロは、神の霊に導かれてなされた預言は、同じように神の霊によって正しい理解に達することができると主張します。

 使徒の証言と旧約聖書の言葉は、車の両輪のように共に働いて、キリストを指示しているのです。そして、これらの証言を通して、キリストと出会い、キリストを知る知識へと聖霊によって導かれていくのです。