2016年11月17日(木) 思い出してほしい大事なこと(2ペトロ1:12-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書は思弁的な教えが記された書物ではありません。そうではなく、神が救いのためになした具体的な出来事が書き記されています。それは救いの歴史を記した書物といってもよいものです。
ところで、英語で「歴史」のことをhistoryといいますが、その語源をHis story(彼の物語)から来ていると説明するのを聞いたことがあります。その場合の「彼」とは「神」のことだというのです。つまり、歴史とは神のストーリーなのだ、と。興味のある説明の仕方です。ただ、これは俗説にすぎません。本当の語源はギリシア語の「ヒストレオー」(調べる、情報を得る、記述する)という意味の言葉から来ています。
ちなみに、history と storyは今でこそ二つの別の単語として扱われていますが、もともとは同じ語源の言葉で、「歴史」と「物語」は本来別物ではありませんでした。語り継がれ、書き記されてこそ、歴史をなしていくということでしょう。そういう意味で、聖書はまさしく語り継がれた物語であり、歴史であるということができます。
壮大な神の救いの歴史は、今でこそ聖書に書き記されていますが、それが読まれ、覚えられ、物語られなければ、意味がありません。聖書を学ぶということは、そういう作業をも含むものだと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 1章12節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。
今、お読みした新共同訳聖書の翻訳では「これらのこと」という言葉が、三度繰り返し出てきます。「これらのこと」が具体的に何を指しているのかは、もう一度、1章5節にさかのぼって読み返す必要があります。とりあえず、そのことに関しては、一旦、脇へ置いておくことにして、ここでは「これらのこと」という言葉に結びついて「思い出させる」あるいは「思い出す」という言葉が出て来ます。明らかにペトロは、読者がこれらのことを記憶にとどめることを強く期待しています。
まず、12節で、「わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです」と述べます。
原文のニュアンスは「いつも思い出させたい」というよりは「いつも思い出させようとしている」「いつも思い出させる用意がある」というニュアンスです。思い出させようとして、積極的な手だてを講じているという気持ちが伝わってきます。「思い出してくれたらいいなあ」という願望を述べているのではありません。そこから一歩踏み出して、忘れさせないための努力を惜しまないという姿勢を示しています。
しかも、12節の後半には、「あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが」とありますから、周知のことがらであるというばかりか、具体的な生活に根付いている事柄です。本来なら、そのような事柄に関して、「いつも思い出させる用意がある」とは、普通は言わないものです。うろ覚えで、生半可にしか覚えていない事柄であれば、「いつも思い出させる用意がある」と助け船を出すものです。にも拘わらず、ペトロはあえて、周知のことがらで、しかもすでに身についているようなことがらに関して、こう述べているのですから、そのことを重く受け止める必要があります。「わかっている、大丈夫」と思える事柄こそ、最大の注意を払う必要があるということでしょう。信仰の歩みには、「わかっている」「もうできている」という思い上がりこそ注意が必要です。
しかし、ペトロはここで、思い上がりを戒めたり注意を促したりしているというわけでもありません。真理を忘れて、道を踏み外しそうになるときに、いつでも助けの手を差し伸べる準備があることを告げるだけです。読者の信仰の歩みを、付かず離れず支えていこうとする牧者としてのペトロの姿勢がここには表れています。
続く13節でも、再び「思い出させて」と出てきます。
「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。」
「自分がこの体を仮の宿としている間」という表現は、「この地上での生涯の間」というぐらいの意味ですが、死んでまでも直接読者に働きかけることは、実際には不可能なことですから、あえてそう書かなくてもよさそうな気がします。しかし、わざわざそう記しているのには、おそらく特別な事情が背景にあってのことでしょう。おそらくは、自分の死が間近に迫っていることを意識して、残された地上での生涯の間、自分がなすべき務めを意識しての発言と思われます。それは14節と併せて読むときに明らかです。
「自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。」
この言葉は、「人生ははかない」という人間一般に言えることとしてではなく、自分についての特別なことを述べているものと思われます。それは年が進んで自分の余命が短いという意識よりも、殉教が近いことを意識したものであったのかもしれません。
キリストの直接の目撃者であり、キリストから直接教えを受けた使徒としての立場を考えると、残された地上での短い生涯をどう生きるべきかは、ペトロにとっては大切な事柄でした。誰が何といおうと、ペトロは人々の記憶に福音が留まるようにと働くことが、自分の最大の使命であると確信していたということでしょう。そして、この先、社会とキリスト者との間に生じる摩擦が高じてくるときに、ほんとうに信徒を支えるものが、何であるかを知り尽くした言葉です。福音の真理こそが、信徒を奮起させることができるからです。
最後に15節でも再び「思い出す」という言葉をキーワードに、ペトロはこう記します。
「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」
最初の二つの「思い出し」についての言葉は、自分が生きている間のことでした。ここでペトロは、自分が世を去った後のことを記しています。もちろん、死んだあとはもはや地上にいる人たちに直接かかわることはできません。今度は自分が直接かかわるのではなく、残された人々がこれらのことを思い出す力を持つことができるように、今、この地上で自分にできることを努めたいということです。
この短い段落を通して、ペトロはわたしたちに教えています。福音の真理を記憶に留めて、それを絶えず思い起こすことこそが、嵐の吹き荒れる人生を乗り越えて、信仰の歩みを続ける力となるのです。