2016年10月27日(木) 恵みに踏みとどまる(1ペトロ5:12-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 高校、大学時代のクリスチャン仲間のことをときどき思い出すことがあります。中には風の便りで、教会から離れてしまったという友達の噂を聞くこともあります。もちろん、本人の口から直接聞いたわけではありませんから、確かな情報ではありません。たとえそれが事実だとしても、そこに至るまでの、本人の心の内を知ることは、ほとんど不可能に近いことです。それをご存じなのは、ただ神様お一人だけです。

 こんなことをいうのは、その友人たちを批評するためではありません。今、という時点で画面を切り取れば、その友人たちは教会から離れ、わたしは教会にとどまっています。しかし、10年後にはどう変わっているかは、誰にも分りません。ただはっきりとしていることは、神の恵みに留まることこそ、神の御心だということです。

 ペトロはこの手紙を締めくくるにあたって、恵みにしっかりと踏みとどまるようにと読者に勧めています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 5章12節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。

 きょうを含めて24回にわたってペトロの手紙一から学んできました。きょう取り上げるのは、この手紙の結びの部分です。ペトロはこの手紙を締めくくるにあたって、どんなことを読者に最後に語っているのか、ご一緒に学んでいくことにしましょう。

 この結びの部分はわずか四つの文で成り立っています。

 最初の文は、12節です。この文章の中心は「シルワノによって短く手紙を書いた」という文です。伝えたい文意は、この手紙がペトロの直筆ではなくシルワノに筆記させたということです。もっとも代筆といっても、内容まで代筆させたのではなく、口述筆記させたという意味でしょう。

 パウロの手紙もそうですが(1コリント16:21, ガラテヤ6:11)、あいさつの部分は自分で筆を執ったようです。例えば、ガラテヤの信徒への手紙の結びで、パウロはこう書いています。

 「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラテヤ6:11)

 もしかしたら、ペトロもここで自分で筆を執って挨拶の部分を書いたのかもしれません。当然、筆が変わるわけですから、筆跡の違いを読者は不思議に感じるでしょう。そういう事情で、ここまではシルワノが筆を執っていたことを明かしたのでしょう。

 ペトロにはシルワノに口述筆記を頼んだ理由がありました。それは、ペトロ自身が、シルワノを信頼に足る忠実な兄弟と認めていたからです。

 このシルワノという人物は、使徒言行録の中では「シラス」という名前で知られ、パウロがテサロニケの教会に宛てた手紙では共同の差出人として名前が挙がっています。初代教会の間ではよく名前が知られていた人物です。そのシルワノに口述筆記させたのは、先ほども言ったとおり、ペトロがシルワノを忠実な兄弟と認めていたからです。

 ところで、12節の文は面白い構造をしています。文頭を単語の並びの順番に無理やり日本語に置き換えると、「シルワノによって、あなたがたに、忠実な兄弟」という文の構造です。「あなたがたに」という言葉が、「シルワノ」を説明する「忠実な兄弟」という言葉の間に割り込んでいるということです。問題は「あなたがたに」という言葉がどこにかかっているのかということです。

 「あなたがたに対して忠実な兄弟、シルワノによって」という意味なのか、「忠実な兄弟シルワノによってあなたがたに書いた」という意味なのか、二通りに読めます。

 おそらく、「あなたがたに書いた」と読むのが正しいのでしょう。しかし、そうだとすると、ペトロはいったん「シルワノによってあなたがたに」と書きかけて、そのシルワノに対する修飾語を後から書き添えたということになります。「〜によってあなたがたに書く」という決まりきった言い方で書きかけて、それを中断してまで、シルワノに関するペトロの評価を書いたわけですから、そのことがかえってシルワノの忠実な性格を読者に印象付けています。

 もっとも誰がこの手紙を口述筆記したのかということも大切なことですが、書いた内容についてのペトロなりの要約もここでは見過ごせません。

 それは、「勧告」と「証し」であるとペトロ自身はその内容を要約しています。特に証しを「神のまことの恵み」に対する証しであると述べます。十二弟子の一人として、イエス・キリストとともに過ごし、キリストを通して示された神の愛と恵みを誰よりも身近で目撃し体験したペトロの証しです。これ以上に説得力のある証言はありません。

 使徒によって証しされたこの恵みにしっかりと踏みとどまるようにとペトロは命じます。

 そもそも使徒たちがキリストから学んだ救いは、恵みによるものでした。それは人間が自分の功績によって勝ち取る救いではありません。いえ、罪ある人間には救いを勝ち取ることは不可能なことです。そうであればこそ、神の愛のうちに留まり続け、神の恵みの中に立つことが重要なのです。

 ペトロはかつて、たとえ他の弟子たちが主イエスを見捨ててしまおうとも、自分だけは最後まで主に従っていくことを主の前で誓いながらも、一日と経たないうちに、主イエスを三度も知らないと否定してしまった経験の持ち主です。人間の力がどれほどあてにならないか、誰よりも知っているペトロです。そのペトロを励まし、キリストの弟子として生かしてくださったのは、神の愛と恵みにほかなりません。恵みにとどまることの大切さを誰よりも知っているのもペトロです。

 自分に失望をし始めたら、止めようがなくなります。そうならないためにも、神の恵みにのみ目を注ぎ、そこにとどまることが大切なのです。