2016年9月8日(木) 信仰者の苦難の意味(1ペトロ4:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 この世での苦しみを経験するとき、しばしば人間が陥る罠は、この苦しみを自分の罪に対する罰であると考えてしまう点です。確かに、苦しみに遭うことで自分自身を謙虚に反省し、それがきっかけとなって、悔い改めへと導かれることがあります。

 しかし、これは一歩間違うと、他人への批判ともなりかねません。苦しみに遭うのは、その人に隠れた罪があって、それが裁きとして苦しみを招いているのだ、という考えです。旧約聖書のヨブ記に登場する友人たちの態度がまさにそうでした。

 苦しむヨブの姿を見て、友人たちがまず最初に思ったのは、正しいと人間の目に映っていたヨブにも、きっと隠れた罪があるに違いない、というものでした。

 そのような考えは、しばしば、自分自身に対して、強く向けられる時があります。もちろん、ほんとうに自分に落ち度があるときには、そう考えることが、自分を反省させるよい機会となります。しかし、実際、そうではないのに、自分には隠れた罪があるに違いないから、こんなに苦しみにあるのだ、と思い込み始めたならば、もはや、自分の神に対する信仰さえ揺らいできます。

 しかし、今日取りあげる箇所には、信仰者としての苦しみに積極的な意味があることが教えられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 4章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

 先週はキリストの苦難の意味とわたしたちとの関係にについてペトロの手紙から学びました。今週取り上げる箇所は、信仰者にとって苦しみを体験する意味は何かということが取り上げられます。特にここで取り扱われる「苦しみ」とは、敵対者によってもたらされる苦しみです。それは悪意に満ちた小さな嫌がらせであったり。命にかかわる迫害であったり、様々なケースがあります。

 もし、そんなときに、このような苦しみに合うのは、神から与えられた自分への懲らしめだ、と思い込み始めたならば、いつまでたっても救いの確信を抱けなくなってしまいます。それどころか、こんな目に合うのは、ほんとうは自分が救われていないからだ、と思い込み始めたならば、もはや信仰そのものを持ち続けることが難しくなってしまいます。

 そう思い込んでしまいがちなわたしたちに、ペトロは苦難の先駆者であるキリストを指し示します。

 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」

 先週取り上げた個所にも出てきましたが、義であるキリストご自身が苦しみを受けられたのですから、その弟子であるキリスト者が苦しみを受けたとしても、少しも不思議ではありません。むしろ、イエス・キリストご自身、そのことを想定してこうおっしゃっています。

 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」(マタイ10:24-25)

 イエス・キリストご自身が悪霊の頭ベルゼブルであると悪口をいわれるのであれば、その弟子たちもそう呼ばれる覚悟が必要です。弟子たちがそのような扱いを受けることは、キリストご自身が、想定していたことでした。

 そうであればこそ、ここはキリストと同じ心構え、同じ思いでいることが大切です。「同じ心構えでいる」というよりも、ペトロはもっと積極的に表現して、「同じ心構えで武装しなさい」と命じます。「武装」というのは戦いに備えた積極的な装備を身に着けることです。

 しかし、それは血肉の戦いではありません。パウロの言葉を借りれば、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、…平和の福音を告げる準備を履物とし…なおその上に、信仰を盾として取り…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取るということでしょう。

 イエス・キリストご自身の態度と言葉に従えば、それは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈」る態度です(マタイ5:44)。

 事実、キリストはそうのようにして十字架の苦しみを耐え忍ばれました。

 ところで、キリストを信じる者がなぜ謂れのない苦しみを受けるのか、それは単にキリストの弟子であるから、というばかりではありません。ペトロは、クリスチャンのうちに起こっている変化にも目を留めるようにと促しています。本人はまだまだ罪の汚れから清められてはいないという自覚があるにしても、しかし、それは確実に清められつつあるということです。

 神がわたしたちを罪から救ってくださったのは、残りの生涯を神の御心を行って過ごすためである、とペトロは記しています。そのとおり、神はそうあることを願い、聖霊を通してわたしたちを清さへと導いてkぅ出さっています。

 そして、誰よりもそのことに敏感に反応するのは、この世の人たちであるとペトロは書いてます。その反応の仕方は、キリストに従う者たちが清い生活を送るようになったことを喜ぶのではなく、むしろ、それを驚き怪しみ、冷やかし、時にはそしりさえするのです。

 そういう意味で、信じる者が苦しみに遭うのは、むしろ、当然起こるべきことと思うべきです。

 キリスト者をののしり、迫害する者たちこそ、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければならない現実に心を留めるべきなのです。

 最後、6節の言葉は再び解釈が分かれる言葉です。

 「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、」というのは、死んだ後に福音を聞いた者たち、という意味ではないでしょう。そうではなく、生きていて福音に接し、今は肉体的には死んでいる者たちのことを、ここでは言いたいのでしょう。彼らの肉体的な死は最終的な裁きを意味するのではありません。むしろ福音のゆえに永遠の命に入れられている、ということです。

 クリスチャンのこの世で受ける迫害も、肉体の死を超えてまで、私たちから永遠の命を奪うものではありません。