2016年8月25日(木) 義のために苦しみを受けるとき(1ペトロ3:13-17)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
良いこと、正しいことが称賛されるのは、人間社会の中では、当然あるべきことです。そして、実際、時代や国に関係なく、どんな社会でも良いこと、正しいことは称賛されています。
しかし、それとはまったく逆のことも起こりうるのが、人間社会の罪深さです。正しい者が、かえって苦しめられたり、さげすまれたり、ということも人間社会では起こります。一方では善が称賛されているにもかかわらず、他方では、それを行う者が軽んじられるという矛盾の中にこそ、人間の罪深さを垣間見ます。
けれども、その矛盾した社会の中に生きているのが、クリスチャンです。ときが来るまでは、そこを抜け出して別世界に暮らすことはできません。そうだとすれば、覚悟を決めて、この世で生きる知恵が必要です。ペトロは。しばらくの間この世に置かれているクリスチャンたちに、どう生きるべきかを教えています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 3章13節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
ペトロは今まで、この世にあっては旅人であり、やがては天の故郷に帰るクリスチャンの生き方について記してきました。そこに記してきた事柄は、クリスチャンとして追い求めるべき生き方であり、善き生活とでも呼ぶべきものでした。
そのような生き方に徹するならば、この世との対立が生じるはずもありません。なぜならペトロが勧めてきたことを要約すれば、すべての人を敬い(1ペトロ2:17)、憐れみ深く、謙虚に生きることだからです(3:8)。
しかし、ペトロは神によって導かれているこの世の善を確信する一方で、義のゆえに、かえって危害を加えるこの世の悪にも無知ではありません。実際、旧約聖書の歴史を振り返ってみても、神の義に生きようとする者たちへの迫害は、神の民の中でさえも起こりました。
ペトロはこの手紙の読者に「義のために苦しみを受ける」という可能性があることを否定しません。否定しないどころか、そうした事態を想定して、落ち着いた心構えでいることを願っています。
「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」
この言葉は、キリストご自身も弟子たちにおっしゃった言葉です。
「義のために迫害される人々は、幸いである。」(マタイ5:10)
確かに、罪びとである人間は何をしでかすかわからない、という意味で、自分を迫害するものに恐れを抱いたり、心を乱すことがあって当然です。しかし、そうであればこそ、ペトロは人間に目を留めるのではなく、キリストに心を留めるようにと勧めます。
「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。」
キリストを主と仰ぎ、このお方をあがめる生き方の中にこそ、人間のなすことに対する恐れを克服する力があります。どんな人間も、本当の意味で生と死に対して何の権限も持ってはいません。神だけが体に対しても魂に対しても権限を持っておられるお方です。イエス・キリストはこうおっしゃいました。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:28-29)
そうおっしゃるキリストは、死の力を打ち破り、墓からよみがえって復活されたとき、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されました(マタイ28:18)。死に対しても命に対しても一切の権能を授かっているキリストです。そのキリストのものとされているのですから、人からの苦しみに、これ以上翻弄される必要はありません。キリストがわたしたちの主であるのですから、すべてのことはこのお方の御手の中にあるのです。
さて、こうして心に与えられる余裕と平安の中で、次になすべきことは、キリストによって与えられた希望について、いつでも語ることのできる準備です。自分を苦しめる者たちについて、いかにその悪を糾弾するかではなく、むしろ積極的に自分の抱いている希望について説明することができるかどうか、ということです。
語れる時にはいつでも語れるように、備えておく必要があります。どんなことがあっても信じ続けるその希望について、信じている本人が一言も語れないのであるとすれば、それこそ聞く者たちにとってはがっかりです。
その昔、長崎で26人のキリシタンたちが処刑されたことがありました。二十六聖人として知られている人々です。その中には、子供たちも含まれています。最年少は12歳の少年でした。処刑を命じられた役人は、せめて子供の命だけは助けてやろうと、子供たちに、形だけでもいいからキリシタンであることを否定するように勧めたそうです。ところが、その子供たちは、この世にあって生きる命よりも、天の御国で生きる素晴らしさを証して、役人の勧めを断割りました。
それは、短い言葉であったかもしれませんが、自分の抱いている希望についての十分な説明でした。しかも、このことは、それを耳にした大人たちをも感銘させたと言われています。
この話には多少の美談が入っていたとしても、それでも希望について語ることの大切さを実例として教えてくれています。
さらにペトロは希望について語るときの態度を記します。
「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」
怒りを持って語る言葉には、真の力はありません。相手を委縮させることはできても、心を開くことはできません。柔和に語るとき、相手の心も和らぎます。
相手を敬う気持ちがなければ、尊大な語り口になって、心に届くことができません。相手への敬意とは、真の恐れから来ることです。創造主である神を畏れ敬う人こそが、人に対しても敬意を抱くことができる人です。「敬意をもって」と訳されている言葉、これは実は「恐れをもって」という言葉です。良い意味での「恐れ」があるところに、語る者も聞く者も、同じ立場に立つことができるのです。