2016年8月11日(木) 妻と夫へ(1ペトロ3:1-7)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書を読むときに大切なことは、そこに記されている事柄は、その当時に生きていた人たちに語られている、という前提で読むということです。それは、聖書に記された内容が、現代人にはほとんど関係がない話だ、という意味ではありません。そうではなくて、当時の人たちが普通に持っていた考えや世界観を背景にして読まなければ、そこに記されていることがらの真意を読み違えてしまうということです。
たとえば、今日でいう人権思想という考えを誰もが持っていたわけではない時代に信仰を持ったとき、その社会の中でどう信仰をもって社会と向き合うか、ということと、誰もが人権についての理解をもって互いに受け入れあう社会の中で、どう信仰をもって生きるのか、とでは、まったく違う課題があり、その課題に取り組む姿勢もまったく違います。
あるいは男女平等という意識がほとんどない社会で生きる信仰者と、男女平等ということが当たり前の社会で生きる信仰者では、直面する問題も、それへの取り組み方も当然違ってきます。
実はきょうの個所も、現代的なセンスで読んでしまうと、思わぬ誤解をしてしまう個所です。しかし、今日を生きる私たちにとって、何の学ぶ点もない勧めでもありません。注意深く読むときに、ここで教えられていることがらが、今を生きる私たちにとっても大きな意味を持つ勧めであることに気がつきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 3章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
きょう取り上げた個所は、妻と夫に対する勧めのことばです。大きな流れからいうと、ペトロは、2章11節以下で、この世に生きるキリスト者について、その基本的な生き方の姿勢を記しました。それは、天国へと向かう旅人の姿であり、また、この世に一時滞在する寄留者の姿であるということでした。それは、しかし、この世と無関係に生きる姿勢ではなく、一時にすぎないからと言って、自由奔放な恥知らずの生き方でもありません。むしろ、この世に対しては、神の国の民にふさわしい品位をもって生きることが勧められ、すべての人に対して、敬愛の念を持つ生き方です。
妻と夫に対しても、聖書の大きな前提は変わりません。少し残念に思うかもしれませんが、聖書は夫婦の関係をこの世に生きる間のものと考えています。夫婦どちらかの死を超えてまでも、相手をつなぎ留めておく関係ではありません(1コリント7:39)。イエス・キリストご自身、来るべき世では、めとったり嫁いだりしないとも明言しています(マルコ12:25)。ですから、キリスト教会では、結婚のときに求められる誓約は、永遠の愛ではなくて、死が二人を分かつ時までの愛です。
しかし、それにも関わらず、この地上にいる間の夫婦の関係は、けっしてどうでもよいものではありません。
では、この手紙では、クリスチャンである夫と妻に対して、それぞれ、どんなことを求めているのでしょうか。
ざっと読んだだけでも、妻に対する勧めの言葉が、夫に対する勧めの言葉の6倍もあることに気がつきます。しかも、妻に対して、開口一番に勧められることは、夫への従順です。
ここまでを読むと、妻に対して不公平な勧めであるように誤解をしてしまうかもしれません。確かに、今の時代に生きるクリスチャン夫婦に対してであれば、もう少し違ったアプローチで書いたかもしれません。
まず、この勧めの言葉を正しく理解するためには、この時代の世間一般の人たちが抱いていた女性観について、また妻の地位に関して知っておく必要があります。それはまた、この時代に生きる女性たちがキリスト教に入信することをどれほど困難にしていたか、ということでもあります。男性が信仰を持つよりも、直面する困難が女性にははるかに多かったということです。
特にここでも挙げられているように、夫婦ともにクリスチャンの家庭でない場合、とりわけ妻だけが入信した場合、折々に困難を味わったことでしょう。この点は今の日本でもそうかもしれません。
未信者である夫が抱く不満のすべてが、キリスト教信仰への攻撃にすり替えられてしまうということは、よくあることです。その機会を与えないようにするためにも、日常生活の振る舞いに心を用いることが勧められています。
言葉で正論を述べれば、夫を打ち負かすこともできるでしょう。しかし、あえてそれを勧めないのは、言葉で未信者の夫を打ち負かしたとしても、夫から敬愛されることがないからです。たとえ相手が信仰を持たない夫であったとしても、夫婦としてより良い関係を持続することに意を用いることが、結果として、夫を信仰へと導く道を開くことになるのです。いえ、必ずそうなるというのではなく、妻の無言の行いによって、夫が信仰へと導かれることを期待して、神の国の民にふさわしい振る舞いで夫婦として生きるということです。
最後に「従いなさい」という言葉について触れておきたいと思います。「意志に反する絶対の服従」という意味にその言葉をとれば、男であれ女であれ、あまり良い気持ちがしません。しかし、この言葉には対になる言葉が先行しています。それは、夫への勧めの言葉の中にある通りです。
夫には妻に対する「尊敬」が命じられています。しかも、「命の恵みを共に受け継ぐ者」としての尊敬です。男女、夫婦、いろいろな違いがあることは否めません。しかし、命の恵みを共に受け継ぐという意味では、対等のパートナーなのです。そういう相手として妻を敬愛するところに、相手の寄り添って歩む気持ちも生まれてくるのです。
夫の側からいえば、妻が自分に従わないとすれば、相手をほんとうに命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しているかどうか、まずは自分を疑うべきなのです。自分に注がれているキリストの愛が、同じように妻にも注がれていると信じるならば、妻を価値ある存在として、無条件に受け入れることは、それほど難しいことではないでしょう。