2016年8月4日(木) 主人に仕える者たちへ(1ペトロ2:18-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げる個所には「召し使い」という言葉が出てきます。現代を生きるわたしたちには、すっかり昔の時代の言葉でピンと来ないかもしれません。「使用人」や「お手伝いさん」というのとも違っています。新約聖書にたびたび登場する「奴隷」という言葉とも違っています。
そもそも新約聖書の中にすら、四回しか出てこない単語ですから、現代のわたしたちにはもっとなじみのない言葉です。
さらに言えば、「召し使い」という制度そのものが現代社会において許される制度かどうかという疑問も当然あるでしょう。
しかし、ここでは、制度そのものの是非を問わずに、仮住まいに過ぎないこの世の制度の中で、キリスト者として生きる指針をペトロの手紙から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 2章18節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
きょうの個所に登場する「召し使い」という言葉は、冒頭でも述べた通り、新約聖書にしばしば登場する「奴隷」という単語とも違っていますし、また、この「召使い」という単語が新約聖書に登場するのは、ここを含めて4回しかありません。
具体的にはルカによる福音書16章13節、使徒言行録10章7節、ローマの信徒への手紙14章4節とペトロの手紙のこの個所です。他の三つの個所が「召し使い」という単語について特別に何かを語っている個所ではありませんので、特に参考になるというわけではありません。むしろ、「召し使い」と訳されるギリシア語の単語の成り立ちが、その立場がどんなものであるかを語っています。
ここで使われる単語は「オイケテース」という単語ですが、「家」を表す「オイコス」という単語から来ています。もともとは家の一員である妻や子供たちを指す言葉でしたが、ここでは「家族に仕える者」という意味です。家族に仕えるというのは、公務上の部下とは区別される存在で、私的な使用人といってもよいかもしれません。
「奴隷」を表す「ドゥーロス」と、こここで使われている「召し使い」(オイケテース)が、この手紙の中でどれほど厳密に区別されているのかは定かではありませんが、「自由人」ではないという意味では、「奴隷」も「召し使い」も同じです。しかし、「召し使い」は「奴隷」ほど主人に対して隷属的な関係ではなく、家族に対してもっと親しい近い関係の使用人で、家庭教師であったり医者であったり、特別な仕事を任された人たちでした。
そのような身分でしたから、たいていは家の主人と良い関係であったと想像されます。しかし、中には横暴な主人もいたことでしょうし、何かのことがきっかけで、家の主人とよい関係を保てなくなることもあったでしょう。そうした状況を踏まえてペトロは読者に勧めます。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」
ここで大切なことは、「心からおそれ敬う」姿勢です。畏れ敬う姿勢がなければ、卑屈な隷属か、主人に対する軽蔑しかありません。
確かにクリスチャンにとって、畏れ敬うべきお方は、主なる神しかおられません。しかし、人間的な秩序の中で、上に立つ者に対する尊敬の念は、決して軽んじることはできないのです。
ところで、この手紙の読者の中に、どれくらいの割合で、「召し使い」と呼ばれる人たちがいたのでしょうか。当時のローマの世界では、自由人ではない人の数が、6千万ともいわれています。そうであるとするならば、かなりの数のクリスチャンも、この階層出身者で占められていたと考えられます。ペトロのこの勧めの言葉は、そういう階層出身の者たちにとっては、現実的な勧めの言葉です。
もっとも、社会の形態がすっかり変わった現代では、この勧めの言葉を直接に適用する機会はないかもしれません。しかし、ペトロは、すでに2章17節で、すべての人を敬うようにと勧めていますから、社会の形態や制度がどんなに変わったとしても、尊敬の気持ちが失われることがあってはなりません。特に「立場の上の者に対する態度」という意味では、この勧めを今でもそのまま適用することができるでしょう。
問題は「無慈悲な主人」にもそうしなければならない理由です。もちろん、すでに直前の節で「すべての人に対する尊敬」について命じていますから、そこには当然「無慈悲な主人」も含まれていることは十分に想像がつきます。
しかし、ペトロは、別な観点からも、無慈悲な主人に対しても従順であることを、いっそう勧めています。
それは、そこに神の特別な御心を見出そうとする積極的な姿勢です。もちろん、主人の理不尽な虐待に、神の御心を見出すことはほとんど不可能に近いことです。ただ大切なことは、神の御心が何であるのかをあれこれ詮索することではなく、ここにも人間の理解を超えた神の善意にあふれた御計画があることを信じて、この苦しみを耐え忍ぶという姿勢です。
そして、何よりも、キリストご自身が、その模範を示してくださったということが、わたしたちへの励ましとなっています。それはただ単にキリストが不当な苦しみを耐え忍ばれたという模範にとどまらず、そのことを通して、わたしたちがキリストのものとされているという事実です。
このお方が「魂の牧者であり、監督者である」のですから、わたしたちの不当な苦しみを見過ごされることは決してないのです。