2016年7月28日(木) 寄留者としてのキリスト者(1ペトロ2:11-17)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「旅の恥はかき捨て」ということわざがあります。旅先の知らない土地では、自分のことを知っている人もいないし、そこに住むわけでもないので、恥をかいてもその場限りのことだ、という意味です。
このことわざの使い方は、旅先で恥をかいてしまった人へのフォローなのか、それとも、旅先では羽目を外してもかまわないという意味なのか、どちらの意味にも使われているように思います。
確かに、旅先では自分と違う文化や習慣があって、してはいけなことをしたために恥をかいてしまうことはよくあることです。しかし、そんな恥を気にしていたのでは、引っ込み思案になってしまいます。そういうときに聞く「旅の恥はかき捨て」ということわざには励まされます。もっとも、情報がいきわたっている現代では、ちょっとしたガイドブックにも注意すべき習慣は書いてあるので、海外へ行っても恥をかく機会はずっと減っているかもしれません。
しかし、このことわざを逆手にとって、旅先で傍若無人のふるまいをする口実になっていることもあります。旅先ではどうせ自分を知らない人ばかりだというので、普段はしないような恥ずべきことを、平気でしてしまうといった具合です。これは本当に困ったことです。
もっとも、どこの誰だかわからないだろうと思えばこそ、そんな大胆な行動にもでるのでしょうが、素性がわかるとなれば、そう大胆なことはできないでしょう。
さて、今学んでいるこのペトロの手紙では、クリスチャンを、この世に一時的に滞在する旅人のように描いています。聖書は、旅人であるクリスチャンが、この世でどう暮らすべきなのか、何と教えているのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 2章11節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
さて、クリスチャンが旅人であり、この世では仮住まいの身である、というとらえ方は、この手紙の冒頭にも出てきました(1ペトロ1:1, 17)。天の御国こそ、帰るべき本国であって、今一時置かれているこの地上の国は、旅先であり、一時的に逗留しているにすぎない、という人生観です。
もし、そうであるとするならば、この地上での生き方は、どうあるべきなのでしょうか。先ほど取り上げたことわざのように、「旅の恥はかき捨て」的な生き方でよいのでしょうか。
ペトロの手紙では、恥をかき捨てる前に、そもそも恥ずべき行動の原因となる、「肉の欲」を避けるようにと勧めます。「肉の欲」という表現、あるいはそれに類似した表現は聖書の中にしばしば登場します。具体的なリストは、例えばガラテヤの信徒への手紙の5章で、肉の欲望が生み出す肉の業として、このように挙げられています。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(ガラテヤ5:19-21)
このような結果を生み出すものが「肉の欲」「肉の望むところ」と呼ばれるものです。そのような欲望を避けるようにとペトロは勧めています。
しかし、ペトロの勧めは、「何かをしない」、「何を遠ざける」という消極的なことだけではありません。むしろ積極的にこう述べています。
「異教徒の間で立派に生活しなさい。」(1ペトロ2:12)
ペトロはそう勧めます。
しかし、「立派」と聞くと、その言葉を聞いた時点で、「それは無理」という反応が返ってくるかもしれません。まして、「そうすれば、……あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とペトロが語るのを聞くと、余計に自信を失ってしまうかもしれません。
ここで注意を必要とするのは、「肉の欲」という言葉が、何に対立している言葉か、ということをよく考えることです。
先ほどのパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の中では、神の「霊」に対立した言葉です。パウロは同じ個所で、霊の結ぶ実についてこう書きました。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22)
そこでは、霊の導きに従って歩む結果として、このような実を結ぶことが約束されています。ですから、ペトロが述べる「立派」という意味も、言い換えれば、聖霊の導きに謙虚に従って生きる生き方です。最初から異教徒たちから称賛されることを目標に何か立派な行いをするというのではなく、ただただ、霊の導くままに生きる結果が、人々の称賛にも値する立派な生き方なのです。
そもそもペトロにとって、人がクリスチャンとなること自体が、霊の導きなくしてあり得ないことです(1ペトロ1:2)。聖霊の導きにとどまることこそ、肉の欲を遠ざけ、聖霊の実を結ぶ秘訣です。
さて、ペトロはこの地上で生きる者にとって避けることのできない権力者とのかかわりに触れています。この個所はローマの信徒への手紙13章とともに、この問題を扱った有名な個所です。確かにペトロの手紙は、パウロの手紙ほど、権力者の権威の源泉を積極的に神に帰してはいませんが、どちらの手紙も権力者に対して否定的ではありませんし、対立的でもありません。
むしろ、キリストによって罪から自由にされた者として、すべての人に対して、愛と尊敬の気持ちを持って接するようにと勧めています。もし、神を知らない者たちだという理由で相手を見下すならば、それは結局自分自身に返ってきます。キリストにあって神から愛されているのですから、そのようにすべての人を敬愛することがこの世を旅するクリスチャンに求められているのです。