2016年7月21日(木) キリスト者の身分と務め(1ペトロ2:9-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世の中には個人個人が持っている名前のほかに、身分や資格を表す様々な称号があります。わたしの個人名は「山下正雄」ですが、これを聞いただけでは、わたしについてほとんど何も情報がないのと同じです。初対面の人に、「わたしは山下です」と自己紹介するのも「わたしは山本です」と紹介するのも、聞いた人にとっては大差はありません。名前はその人を識別するための記号にしか過ぎません。
しかし、「牧師の山下です」と自己紹介するのと、「社長の山下です」と自己紹介するのとでは、まったく違った印象を抱くはずです。称号を含めて自己紹介することで、自分が何者であるかを伝えているからです。
「クリスチャン」とか「キリスト者」というのも、キリストを信じて救われたものに与えられた称号ですが、聖書の中にはもっとバラエティに富んだ仕方で、キリストを信じて救われた者たちを表現しています。きょう取り上げようとしている聖書の個所でも、様々な呼び名が登場しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 2章9節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
今、お読みした個所には、いきなり四つの呼び方でキリスト者が紹介されています。
「選ばれた民」、「王の系統を引く祭司」、「聖なる国民」、「神のものとなった民」
この四つの呼び方には一つの共通した概念が流れています。それは救われたクリスチャンを孤立した個人とは決して見ていないということです。そもそも「民」や「国民」という言葉は、たった一人では成り立たないものです。「民」や「国民」には集団としての概念が含まれています。キリストを信じてクリスチャンになるということが持っている重大な事柄がここには含まれています。つまり、キリスト教というものが、単に個人の宗教にとどまらないということです。私とイエス・キリストがつながっていれば、それがすべてというわけではありません。そこには「共同体」への帰属意識が強く働いているということです。
これは何も新約聖書にだけ見られる特徴ではありません。旧約聖書の宗教にも共通することです。イスラエルの民は、個人として神との関係を維持するのではなく、むしろ、神の民、選ばれた民として、一つの共同体をなしているのです。
では、「王の系統を引く祭司」という呼び名には、集団的な共同体としての含みがあるのかという疑問があるかもしれません。実は、ここで使われている「ヒエラテウマ」という単語は、単に「祭司」を意味する単語「ヒエレウス」とは違います。むしろ、「祭司団」とでも訳した方がよい言葉です。ここでも、ただ単に「あなたがたは祭司だ」と言っているのではなく「あなたがたは祭司の集団だ」と呼んでいるのです。
四つの称号とも共同体としてのキリスト者に与えられた称号であるということが、この個所を理解するうえで重要な点であるということです。
では、称号の一つ一つを見ていくことにします。最初の呼び名は「選ばれた民」です。新改訳聖書は「選ばれた種族」と訳しています。新共同訳聖書が「民」と訳し、新改訳聖書が「種族」と訳している「ゲノス」という単語は、もともとは単一の先祖から出た血のつながりのある氏族を指す言葉ですが、ここでは、血縁関係を意識していないことは明らかです。というのは、次の節でも言われているとおり、この手紙の読者たちは「かつては神の民ではなかったが、今は神の民」である者たちだからです。神の選びによって同じ民とされた者たちです。
この場合、聖書がいう「選び」には、神の一方的な無条件的な選びという言葉の背景があります。むかし、神がイスラエルの民を選んだのは、彼らのうちに神の選びを引き出すような条件があったからではありません。むしろ、選ばれるには程遠い貧弱な民でした(申命記7:7-8)。にもかかわらず、彼らが神の民として選ばれたのは、神の一方的な恵みにほかなりません。そして、今、同じように異邦人たちも、キリストと結ばれて、神の選びの民となったのです。
次の「王の系統を引く祭司」という称号については、さっきも触れましたが、「祭司的な集団」をイメージした表現です。しかも、その祭司は「王の系統を引く」と言われています。これに対して、イスラエルの祭司は、レビ部族のアロンの系統に属する者が任命され、王の系統を引く祭司と呼ばれることはありませんでした。
王であり祭司である人物は、旧約聖書では創世記14章に登場する「サレムの王メルキゼデク」がその人でした。のちに新約聖書は彼をキリストのひな型とみています(ヘブライ7章)。つまり、キリスト者が「アロンの系統を引く祭司」とは呼ばれずに、「王の系統を引く祭司」と呼ばれているのは、まさに、キリストご自身が王の系統を引く祭司であったからです。
三番目に登場する「聖なる国民」という称号は、すでに旧約聖書の民であるイスラエル人たちにも用いられていました。そういう意味では目新しい呼び名ではありません。しかし、ここで目新しいのはその呼び名ではなく、イスラエル人にとって汚れた民であった異邦人が、「聖なる民」と呼ばれているところに、まさに目新しさがあるのです。市場で異邦人に接すれば、身を清めなければならないと考えていたイスラエルの人々ですが、しかし、その汚れていると思われていた異邦人を神は聖なる国民としてくださったのです。
最後の呼び名は「神のものとなった民」ですが、これこそもっとも慰めに満ちた呼び名です。神の所有物というと良いイメージではないかもしれませんが、生きるにも死ぬにも神の御手のうちにあるとするならば、これほど心強いことはありません。キリストを信じる者たちは、もはや誰の手にも渡されることがない、神のもの、神の民なのです。
そのような民とされた者たちの務めが、ここに記されています。
「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」
この言葉を「キリスト教を伝道するため」と置き換えてしまうと、あまりにも狭い目的になってしまいます。それは神の救いの御業に対する賛美も感謝も証しも含む広い活動を含むものなのです。神がキリストを通して、私たちを「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」としてくださったのは、神の御業を証しし伝えるためです。いえ、神のものとされた今、神の御業を伝えるものとされているのです。