2016年7月14日(木) 尊いかなめ石、つまづきの岩(1ペトロ2:7-8)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
同じものを見ていても、人それぞれ違って見えるということは、現実に起こることです。同じものを見ているのだからといって、みんながみんな同じように、ものを見ているわけではありません。事実は一つであったとしても、解釈は幾通りもあります。人は事実だけを見ているようで、しかし、実際には、解釈を含めてその出来事を見ているからです。
例えば、海外メディアが伝える日本政府の姿と、日本の国内メディアが伝える日本政府の姿は微妙に違っていることがあります。時にはまるで正反対のことを耳にすることすらあります。そこには解釈というフィルターがかかっているからです。そして、その情報を受け取る人にも、解釈というフィルターが働いて、それぞれが違ったように物事を見ているからです。
さて、きょう取り上げようとしている箇所にも、同じ事柄がまるで正反対の表現で記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 2章7節と8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
前回、取り上げた個所の最後に、旧約聖書から引用した言葉が記されていました。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」(1ペトロ2:6)
これはギリシア語訳の旧約聖書、七十人訳聖書のイザヤ書28章16節からの引用です。
神が置くと約束された「選ばれた尊いかなめ石」なのですから、事実その通りに違いありません。しかし、イザヤは続けて、「これを信じる者は、決して失望することはない」と述べて、この石を「選ばれた尊いかなめ石」と受け取る側の信仰を問題にしています。
この手紙の受取人たちにとっては、イエス・キリストは「選ばれた尊いかなめ石」として、神から与えられたお方として受け止められています。
そのことを受けて、きょうの個所は、「従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないもの」だ、と述べられます。
先週の話の流れからいうと、この掛けがえのないイエス・キリストをかなめ石として、信じる者一人一人が神殿を構成する石となって、キリストを頭とした信じる者たちの共同体を形作っていくことが、クリスチャンのあるべき成長の姿として描かれていました。
しかしなががら、ペトロはこのまったく同じ石が、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石」と同じであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」だと述べます。それを受け取る人の受け取り方によって、「尊いかなめ石」とは、少しも感じられないということです。
「家を建てる者の捨てた石」という表現は、旧約聖書詩編118編22節からの引用です。
「家を建てる者の捨てた石」というのは、家を建てる者がうっかり間違って捨ててしまった石というニュアンスの表現ではありません。むしろ、吟味した結果、捨ててしまったという積極的なニュアンスの言葉です。熟練した建築家は、材料を見極めて、どの石がかなめ石にふさわしいかを判断して使います。しかし、その判断を間違えば、建物全体が崩壊してしまいます。
信じない者にとって、イエス・キリストは家を造る者が吟味して捨てた石のようにしか見えない、というのです。もっと言うならば、捨てられた石どころか、それにつまづき、倒れてしまうようなとんでもない岩です。
実は、イエス・キリストをこのように「家を建てる者の捨てた石」に例えるのは、ペトロが最初の人ではありませんでした。主イエス・キリストご自身が、この詩編118編を引用して、ご自分のことを「家を建てる者の捨てた石」とすでに表現しています(マルコ12:10)。
イエス・キリストが詩編118編を引用してお語りになったとき、その相手は、イエス・キリストを意図的に拒むユダヤ人の律法学者たちでした。
ご自分の民のところへ遣わされてきた救い主を、多くのユダヤ人たちは拒んでしまいました。しかし、その拒まれ、捨てられたイエス・キリストこそ、重要な岩として、神がお用いになったのです。そして、その結果、救いは信じる異邦人にももたらされるようになりました。
ペトロがここで「信じない者たち」と呼んでいる相手も、おそらくは、信じない人々を一般化しているのではなく、具体的にキリストを拒んでしまった信じないユダヤ人たちを第一に念頭に置いているのでしょう。
ペトロは少し先で、こう書いています。
あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです(1ペトロ2:10)。
これは、この手紙の読者が異邦人であることを暗示しています。言い換えるならば、この手紙の読者は、まさにユダヤ人たちが見向きもしなかったイエス・キリストによって、神の民に加えられるという恩恵をいただいた人々であったということです。
ではなぜ、自分たちのところへ遣わされてきた救い主を、ユダヤ人たちは拒んだのでしょうか。それは「彼らは御言葉を信じないのでつまずく」と記されているとおりです。神の御言葉である聖書にどう聞くか、彼らが聖書に熱心であったことは否めません。しかし、イエス・キリストご自身、ヨハネによる福音書の中でこうおっしゃっています。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
どんなに熱心な聖書の研究であったとしても、そこにイエス・キリストを見いだせないとしたら、その聖書研究はむなしいものです。
しかし、ペトロは、そのようなことの中にも、神の深い熟慮があったことを記しています。
「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです」(2:8)
神の御計画の全体を人間は理解することはできません。ただ人間にできることは、恵みによって救われたことを、神に感謝することです。