2016年5月19日(木) 選ばれた者、聖なる民(1ペトロ1:1-2)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分が何者であるのか、ということは、だれにとっても関心のある事柄です。特にクリスチャンにとって、自分が何者であるのか、というアイデンティティの問題は、とても重要な問題です。聖書はクリスチャンが何者であるのかを、至るところで、いろいろな表現で言い表しています。手紙の書き出しの部分にさえ、その手紙を受け取るはずのクリスチャンが何者であるのかを、通り一遍ではない表現で示しています。

 きょうから学ぶ、ペトロの手紙の書き出しにも、クリスチャンがどんな存在であるのか、独特の表現で書き表されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章1節と2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、”霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

 今お読みした個所は、手紙の書き出しの部分です。どこの世界でもそうですが、手紙の書き方には、一定の様式があります。新約聖書の中におさめられた手紙も例外ではありません。当時のギリシア世界で用いられていた一般的な手紙の書き出しは、手紙の差出人、手紙の受取人、それから挨拶の言葉と続きました。

 ペトロの手紙も、大雑把に言えば、その様式に則って手紙が書かれています。手紙の差出人、手紙の受取人、それから挨拶の言葉へと続いています。しかし、それぞれの要素には、キリスト教的な要素が盛り込まれているという点で、この手紙はまぎれもなくキリスト教の手紙です。

 まず差出人は、ペトロであると自分を名乗っています。言うまでもなく、このペトロは、キリストの12弟子の一人であった人物です。もともとの名前はシモン(ルカ5:3)またはシメオン(使徒15:14; 2ペトロ1:1)というヘブライ語の名前でした。「シモン・バルヨナ」つまり「ヨナの子シモン」とも呼ばれていました(マタイ16:17)。

 ガリラヤ湖で漁師を生業とし、兄弟のアンデレに導かれてイエス・キリストと出会い(ヨハネ1:40-41)、12人の弟子の一人となりました。このシモンがいつキリストから「ペトロ」というあだ名をいただいたのかは、福音書の記事から時期を特定することはできませんが、ヘブライ語で「ケファ」、ギリシア語では「ペトロ」と名乗るようになりました。その意味は「岩」という意味で、とりわけ、イエス・キリストは「この岩の上に教会を建てる」とおっしゃったほどです。

 12弟子の中でも際立った存在として福音書の中では描かれています。

 さて、手紙の差出人に話を戻しますが、自分をペトロと名乗り、イエス・キリストの使徒であると自分を紹介します。当然のことながら、この手紙の受取人にとっては、ペトロが使徒であることは周知の事実でした。ペトロが自分を紹介する方法はいくつもあったでしょう。この手紙の5章1節では自分を「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として」と表現していますが、この手紙全体は、長老としてのペトロでもなく、キリストの受難の証人としてのペトロでもなく、キリストから遣わされた使徒としてこの手紙を差し出しているということです。

 ここまでは、手紙の差出人についてですが、もちろん、このペトロが、ほんとうに12使徒のペトロであったのか、それともペトロの名を名乗る人物が書いたのか、という学問的な議論はありますが、ここではその議論に深入りしないことにします。手紙の著者がペトロ本人であるという前提で読んでいくことにします。

 さて、この手紙が興味を引くのは、差出人についての記述よりも、むしろ、この手紙を受け取る人々が誰であったのか、そして、その人たちのことをどう表現しているか、ということです。

 この手紙の受取人をペトロは「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と呼んでいます。

 ここに記されている五つの地名は、現在のトルコ、当時の小アジアに散在するローマの地方です。おそらくこれらの地域に散在している群れに宛てて回覧して読まれるように書かれた手紙であったと思われます。この地名の順番に回覧されたのかどうかはわかりませんが、そうであったかも知れません。

 ペトロはこれらの地域にいるクリスチャンたちを「各地に離散して」と表現しています。ディアスポラという言葉は、本来はパレスチナを離れて離散して暮らすユダヤ人たちをさす言葉でしたが、ここでは、各地に広がる神の民であるクリスチャンを指して「離散している」と表現しています。もちろん、この受取人の中には、生まれも育ちもその地域から一歩も出たことのない人々も居たことでしょう。にもかかわらず、「離散」という言葉をあえて用い、しかも、彼らが住んでいる場所を「仮住まい」と呼んでいます。

 この仮住まいという表現は、地上のエルサレムから離れて仮住まいをしている、という意味ではなく、天のエルサレム、天の神の都から、一時この地上で暮らしているというニュアンスです。パウロの言葉を借りれば、クリスチャンたちの本国は天にあるということであり(フィリピ3:20)、またヘブライ人への手紙の言葉を借りれば、「自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者」ということです(ヘブライ11:13)。

 自分の国籍が天にあるという自覚、そしてこの地上での暮らしが仮住まいに過ぎないという意識は、この地上での暮らしに、何の関心も責任も感じないということでは決してありません。むしろ、この手紙の中にしばしば出てくるクリスチャンとして受けるいわれのない苦難に対して、それを耐え抜く勇気と力と希望を与えるものです。

 どんなに地上の勢力が教会を迫害し、排斥しようとも、行き場を失うことがないという希望があります。それは、天にこそふるさとがあり、帰るべき場所があるからです。そして何よりも、この手紙の受取人は「選ばれた人たち」であるとペトロは書いています。もちろん、その場合の「選ばれた」というのは、間違った意味での選民意識ではなく、ただ神の憐れみと恵みによって選ばれた、という意味です。

 ペトロはさらに、どのようにしてわたしたちが神の民とされたのかを述べます。

 「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、”霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」。

 ここには、父と聖霊と神の子イエス・キリストの三重の働きが語られています。その人本人の功績ではなく、三位一体の神の働きを通して、選ばれ、聖なる神の民とされたのです。