2016年5月12日(木) 兄弟を迷いの道から助け出す(ヤコブ5:19-20)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教を信じれば、誰でも正しいことだけを思い、正しいことだけを行うことができるようになる、と期待するのは、ある意味、当然のことです。そうでなければ、何のためにキリスト教を信じるのか、説得力がないからです。しかし、その期待を裏切るようで申し訳ないのですが、現実にはキリストを信じて洗礼を受けた後も、罪の誘惑に遭うばかりか、誘惑に負けて、神の御心に添わない道を進んでしまうことがあります。
その場合、その人は本当のクリスチャンではなかったのだ、と切り捨ててしまえば、説明は簡単かもしれません。しかし、聖書の教えによれば、真のクリスチャンであっても、地上での歩みの中で罪を犯してしまうということが百パーセントないとは言い切れません。では、なぜ神は人を一気に聖なる者へと変えてしまわないのか、その理由は残念ながら明らかにはされていません。ただ、確かなのは、罪を犯してしまったクリスチャンが、悔い改めて再び信仰の道を歩むということを神は望んでおられるということ。そして、その為に他のクリスチャンがその人のために力となるということを神が望んでおられるということです。
きょうはヤコブの手紙の学びの最後となりますが、その問題をヤコブは手紙の最後で取り上げています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 5章19節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。
ヤコブの手紙は、一見、結びの言葉らしい言葉がありません。本来あったはずの結びのあいさつが、何かの拍子に失われてしまったかのようです。しかし、よくよく手紙全体を読み返してみると、「多くの罪を覆うことになる」という最後の一文は、この手紙を締めくくるのにふさわしい言葉です。
というのも、ヤコブの手紙は全体的に厳しい内容の続く手紙でした。ヤコブは手紙の冒頭から、試練の問題を取り上げて、クリスチャンであっても誘惑を避けることができない現実を語りました。そして、試練に忍耐して打ち勝つことの意味を読者に諭してきました。
時には手紙の中で、神の御心から離れて生きるクリスチャンの姿を厳しく非難しました。口先だけの信仰に終わって、神の御心に従って具体的に生きようとしない人々の愚かさを指摘し、また舌で罪を犯しがちなわたしたちの弱さをも、臆することなく取り上げました。
けれども、そうした厳しい内容の背後にあることは、決してそのようなクリスチャンを非難し、断罪することではありませんでした。この手紙の目的は、キリストを信じた者たちが、真理の道に留まって、神の御心に沿った歩みを続けることです。いわば、ヤコブ自身が真理から迷い出た者たちを、真理へと連れ戻すために、この手紙を書き、時には厳しいことも、敢えて歯に衣を着せずに語ったのでした。それは一見罪を暴いているだけのように受け取られてしまうかも知れません。そうであればこそ、手紙の締めくくりの言葉は「多くの罪を覆うことになる」としたのです。ヤコブが今まで書いてきたことが目指しているのは、決して、罪を暴くだけのことではありません。むしろ、罪が覆われることを願ってのことです。
さて、手紙の結びとも言えるこの段落で、ヤコブは、自分がしてきたのと同じように、この手紙の読者に、心理から迷い出た者たちを再び真理の道へと連れ戻すことを勧めています。
「真理から迷い出た者」というのは、広い意味では、すべての人間がそうです。それは真理を曲げる人間であり、神の真理に替えて偽りを愛する人間です(ローマ1:18-32参照)。しかし、ヤコブが語っている「あなたがたの中に」という表現は、「あなたがたの生きている世界」という広い視野ではなく、むしろ、「教会」という狭い世界のことに目を向けてのことです。ヤコブ自身が連れ戻そうとして手紙を書いている相手は、教会に集う兄弟姉妹です。手紙の受取人に期待していることも、同じように教会の中にいて、真理から足を踏み外している人たちを連れ戻すことです。そのことの大切さをヤコブは手紙の最後に記しています。
罪を犯した教会員を断罪して、教会の交わりから追放してしまうことは簡単なことです。しかし、ほんとうになすべきことは、その人が罪に気がついて、罪の道から離れて真理の道を再び歩みだせるようにと、万全をつくすことです。
そのことは、主イエス・キリストの教えでもありました(マタイ18:15-35)。イエス・キリストは、罪を犯した兄弟がいるならば、まず二人だけのところで、その人に忠告して、悔い改めを促すことを勧めました。それで言うことを聞いてもらえれば、「兄弟を得たことになる」とキリストはおっしゃっています。しかし、聞き入れてもらえなければ、ほかの一人か二人を連れていくようにと勧めています。そして、それでも聞き入れてもらえない時は、教会に申し出るようにと勧めています。要するに、兄弟を得るための努力を惜しまない、というのがイエス・キリストの教えです。
実は、この話を聞いていたペトロが、何度まで兄弟を赦すべきか、という質問を投げかけました。キリストの答えは、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」というものでした。
7の70倍までも赦さなければならない状況というのは、ほとんど信用できないくらいの相手です。しかし、主イエス・キリストはそれでも赦すことを願いました。それは、わたしたち自身、神の豊かな赦しの中に生かされているからです。神の赦しが先ずあって、その中にわたしたちが生き、その兄弟もまた神の赦しに生かされることを、神が願っているからです。
ヤコブもまた兄弟を悔い改めに導き、兄弟を赦し、兄弟を得る幸いを語っています。その幸いについて、ヤコブはこう語ります。
「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」
キリストがわたしちの罪を背負って十字架で死んでくださったのは、わたしたちの罪が赦され、新しい命へと生かされるためです。その命の道にとどまることこそ、神の御心です。そうであればこそ、同じ主を信じる者が、共に命の道を歩むようにと最大の努力を惜しまないことこそ、互いになすべき務めです。