2016年5月5日(木) 祈りの力(ヤコブ5:13-18)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
お祈りをするということは、何も特別に信仰深い人のしるしではありません。またキリスト教徒だけが祈るというわけでもありません。世界中、ありとあらゆる人が祈ります。それは特定の神仏に向かって祈ることもあれば、漠然とした超自然的な存在に向かって祈っている場合もあります。もちろん、キリスト教的なものの言い方をすれば、まことの神に向かって、祈るのでなければ、祈りとは言えないでしょう。
しかし、それはさておくとして、なぜ人は祈るのか、ということを考えてみると、それは人間が持っている特別な感性に根差している、ということができると思います。その感性によって、人間は自分には不可能なことがあることを直感的に悟っているからです。そして、その同じ感性は、人間にとって不可能なことを可能にしてくださる超自然的な存在があることを人間に感じさせているからです。もし、そのどちらかがかけていたならば、人間は決して祈ることを学ばなかったでしょう。
そして、人間に祈る心があるからこそ、祈りについて語る聖書の言葉を理解し、それを受け止めることができるということができます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 5章13節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、3年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。
ヤコブは手紙を結ぶにあたって、祈りの力について語っています。そもそも何故、ヤコブはここで祈りについて語っているのでしょうか。
教会には苦しみの中にある人たちがいます。しかも、その同じ教会の中には喜びいっぱいの人もいます。ヤコブの目はその両方の人たちに注がれています。苦しんでいる人も、喜んでいる人も、そこだけを取り上げれば、大きな違いです。しかし、苦しみも喜びも、人生の中ではそんなに隔たった所に存在するわけではありません。
きょうまで喜びのうちにあった人が、突然の出来事で苦しみと悲しみを味わうことがあります。もちろん、その逆のことも起こります。人間の知恵ではとうてい説明できない仕方で苦しみから解放されることもあります。世の終わりと救いの完成へと向かう教会には、いつもその二つが隣り合わせです。どちらかしかないのであれば、戸惑いも少ないでしょう。しかし、現実はそうではありません。ほとんど何の法則性もなく、ある人に苦しみが襲い、ある人には喜びが訪れます。
ヤコブは、苦しんでいる人とたちには祈ることを、喜びの中にある人には賛美することを勧めます。どちらも神との交わりの中で、苦しみを受けとめ、あるいは喜びを味わうようにとの勧めです。神を離れて苦しみと向き合ってはいけません。苦しみを受け止めきれずに押しつぶされてしまいます。神を抜きにして、喜んではいけません。喜びがどこから来るのかを忘れて、人間が人間の喜びを追及し始めるからです。
さて、ヤコブは人間の苦しみの方をさらに掘り下げます。苦しみには様々な苦しみがあります。肉体的な痛みもあれば、精神的な苦しみもあります。様々な苦しみのある中で、ヤコブは特に病気の苦しみを取り上げて言います。
「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」
ここでヤコブの念頭にある病気の人というのは、おそらくは床に臥せるような、病気の人でしょう。2、3日すればまた元気になって、教会の交わりに顔を出すことができるような軽い病気のことではありません。回復が長引きそうか、あるいは回復の見込みがないか、あるいは、自力では、もう教会に出向くことも難しい病人を想定していると思われます。そうであれば、教会の長老を招いて祈ってもらうようにと勧めます。
もちろん、教会の誰に祈ってもらっても良いでしょう。しかし、ヤコブは特に教会の長老たちを招くようにと命じています。群れのために立てられた教会の監督者たちである長老に来てもらうようにと勧めているのは、彼らの祈りに特別な効力があるからという意味ではないでしょう。むしろ、そうすることが、教会の群れを世話する立場にある長老の務めだからです。そういう意味で、長老たちの祈りは、利得を求める祈りではなく、病に伏せる群れの一員を純粋に思う祈りということができるでしょう。
ヤコブは、病気に苦しむ者が、ただ自分一人でこの苦しみを背負うのではなく、長老たちがこの苦しみに祈りをもって寄り添うことを願っているのです。
ヤコブはさらに筆を進めて、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と記します。
あたかも病気と罪を結び付けているような書き方です。しかし、ヤコブは病気と罪との関係を断定していません。あくまでも、「もし」という仮定の話です。
病気の時に、この病が自分の犯した罪と関係があるのではないかと悩むのは、病に苦しむ本人が一番悩むことです。罪について敏感であればあるほど、その悩みは病気以上に本人を苦しめます。その人に向かって、「そんなことはない」といくら言ったとしても、本人には気休めとしか聞こえないかもしれません。
ヤコブは、その人の病気が罪のせいだとも、違うとも断定せず、その人の気持ちに寄り添って、その人が仮に罪を本当に犯していたとしても、主の赦しを信じてやまない姿勢を示します。病の宗教的な由来を探っても益することはありません。むしろ、それがどんなことに起因するのであれ、そのことが、キリストを通して与えられた救いから私たちを締め出すことは出来ないのです。そう確信して祈るからこそ、その祈りにアーメンと応じる者には平安が伴います。
最後にヤコブは互いのために祈ることを勧めています。最初ヤコブは苦しんでいる者は祈るように命じました。次にヤコブは病気の人は長老たちを呼んで祈るように命じました。そして、ここへきて、教会という共同体の中で、互いに罪を告白し、祈りあうことを勧めています。教会は祈りによって支えあう共同体だからです。