2016年4月28日(木) 誓いについて(ヤコブ5:12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「誓い」という言葉を知らない人はほとんどいないと思います。では、「誓い」という言葉を聞いて、一番に思い浮かべることは何でしょうか。ある人は、スポーツ大会での場面を思い浮かべるかもしれません。スポーツマンシップにのっとって正々堂々と戦うことを宣誓する場面はよく目にします。あるいは、結婚式の誓約の場面を思い出す人もいるかも知れません。「病める時も、健やかなる時も終生変わらぬ愛を誓いますか」と問う場面は、映画やドラマのシーンにもよく出てきます。また別な人は、アメリカの大統領が就任する際に、聖書に手を置いて宣誓する場面を思い浮かべるかも知れません。考えてみると、こうした誓いはどれも儀式を伴うものです。

 そもそも、誓いと約束は、どこがどう違うのでしょう。たとえば、「〜することを誓います」というのと、「〜することを約束します」というのでは、ほとんど意味に違いはありません。あえて違いをあげれば、「誓い」の方が「かならず約束を果たす」という重い響きを持っているかも知れません。そして、そこには言外に、その誓いの証人として神仏がその場に臨んでいるというニュアンスが含まれています。神仏の前で約束したことであるだけに、恐れをもって実行しなければならないというニュアンスです。

 しかし、本来は重い意味をもったはずの誓いが、やがてはただの儀式にすぎなくなって、形骸化しているようにも見受けられます。

 きょう取り上げる箇所にも、誓いについての教えが登場します。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 5章12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。

 きょう取り上げた箇所と非常によく似たことばを、主イエス・キリストご自身もおっしゃっています。マタイによる福音書5章33節以下にこう書いてあります。

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 ここでも、誓うことが一切禁じられ、ただ、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」とすることが命じられています。

 それでは、キリスト教ではこの教えの通り、文字通り、あらゆる誓いが禁じられているでしょうか。先ほども取り上げましたが、キリスト教では結婚式を初め、さまざな誓いの機会があります。むしろ、一般の社会よりも誓いを立てる機会は多いくらいかもしれません、洗礼をうけるとき、結婚するとき、そのほか教会のさまざまな役職に任じられるとき、必ず誓うことが求められます。

 では、キリスト教会は主イエスの教えや、ヤコブの手紙の教えを無視しているのでしょうか。そもそも、ヤコブはここで、なぜ唐突とも思えるほど「誓い」についての教えを持ち出してきたのでしょうか。

 前後の文脈をよく読み返してみると、「裁き」というキーワードが何度も登場しています。この場合の裁きとは「終わりの時」の裁きです。ヤコブはこの手紙を書くに当たって常に世の終わりの近いことを意識していました。やがてすべての人は裁きを受けなければならないことは、ヤコブにとって自明のことでした。それは、ヤコブ一人に限らず、キリスト教会全体が持っていた意識です。

 もちろん、裁きの日に無罪が宣告されるのは、自分の功績ではなく、ただキリストの義のゆえにです。ヤコブはそのことを前提としながらも、なお、地上での生涯がキリストの義にふさわしい行いに満ちているべきことを、繰り返し強調してきました。キリストのゆえに信仰によって義とされたのであれば、なおのこと、その義にふさわしく生きることが、ヤコブにとっての大きなテーマでした。

 キリストの再臨と最後の審判に心を向けるときに、あらゆる行いに細心の注意を払うのは当然です。ヤコブはすでに人が口にする言葉のことを取り上げました。舌の失敗がもたらす災いに注意を促すためです。また、明日のことがどうなるかもわからない身でありながら、思い上がった人間の軽率な決意にも注意を促しました。そういう文脈の中で、ヤコブは軽率な誓いにメスを入れます。

 この場合の誓いは、あることを最善を尽くして必ず成し遂げるという強い約束です。そして、その約束がどれほど堅実なものであるかを、神の名にかけて誓うことで保障しようとするものです。もちろん、誠実な思いから出る誓いであれば、何も問題はありません。約束の言葉の通りに最善を尽くして約束を果たそうとしているのですから、神の名によって誓ったからといって、非難されるべきものでもないでしょう。

 ヤコブがここで問題としているのは、そういう誓いとは明らかに違うものです。むしろ、必ず約束を成し遂げる見込みもなければ、その固い決意もないままに、しかし、あたかも堅実な約束であるかのように見せかけるために、軽率にも「神に誓って」などと口走る約束です。

 もしほんとうに、自分の語った言葉によって責任が問われ、それにしたがって裁きを受けることを知っているとすれば、軽率な誓いなどできないはずです。ヤコブの言うとおり、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」とすること以上のことは、口にすることはできません。

 イエス・キリストは別の箇所でこうおっしゃっています。

 「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36-37)

 現代のわたしたちは「神に誓って」などという言い方はしなくなりましたが、それに代えて「絶対に」という言葉が多く使われるようになりました。明日の自分の身がどうなるかもわからない人間が、絶対に大丈夫などと請合うことは、高慢さ以外の何者でもありません。

 神の審判の日を真摯に受け止め、謙虚に神の義を求めて生きることこそ、ヤコブが理想とするキリスト者の姿です。