2016年4月7日(木) 命を与えてくださる神の前で(ヤコブ4:13-17)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間が他の動物と違っているいくつかの特徴の中に、お金を持っているということが挙げられます。人類が物の交換の仲立ちとしてお金を持つようになってから、それまでにない変化が起こったと言われています。その一つはお金が生まれた時代から、急速に職業の種類が増えたということです。これはメソポタミアで発見された粘土板に記された職業の一覧表とお金の発明時期との相関関係から読み取ることができると言われています。
考えてもみれば、例えば農業道具を作ることに長けた人がいても、その価値に見合った報酬をお金で支払ってもらわなければ、それだけを仕事として生活が成り立ちません。
もう一つの大きな変化は将来の計画を立てることができるようになったということです。狩猟生活では、その日の分を食べてしまえばおしまいです。保存できたとしても、せいぜい1週間とかひと月が限度です。農業の時代になって、穀物で蓄えることができるとはいっても、そこにも限界があります。銀貨や金貨の発明によって、やっと安定した蓄えを持つことができるようになって、ようやく将来の計画が立てやすくなったということができます。貨幣を持たない他の動物では、将来の計画などというものは考えられません。
しかし、それと同時に、ほかの動物と違って、人間はお金に希望を置きすぎて、自分の命の限界を忘れてしまっている愚かな生き物です。
きょう取り上げる個所にも、そうした命に対する認識の愚かさを戒める言葉が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 4章13節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って1年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
明日はどうなるのかわからない、というのは誰もが知っている真理です。ある程度の予測はできますが、百パーセント言い当てることはできません。特別なことが起こらない限り、明日も今日の繰り返しになるだろう、というくらいのことしかわからないのがわたしたちです。
そうであればこそ、想定できる可能性をできる限り考えて、それに対処しようとするのも人間です。そして、そのこと自体を悪いこととして否定することはできません。
また、またそれと同時に、わからないことや予想できないことについて、必要以上に心配したのでは、前に進むことができません。ある程度のところで考えをとどめておくことも大切です。
さて、きょうの個所の冒頭に出てくる台詞、「今日か明日、これこれの町へ行って1年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」という台詞は、それ自体、非難されるものではないでしょう。もちろん、そのお金で何をするのか、という使い道が問題となることはあります。あるいは、その計画が当てのないまったくの思いつきであるということもあるかもしれません。しかし、商売そのものや何かの計画をたてること自体をヤコブが否定しているのではありません。
むしろ、将来の計画を実現するために、必要な資金を自分の手の働きで稼ごうとすることは、褒められこそすれ、非難されるべきことではないでしょう。
ヤコブがここで問題としているのは、商売のことでもなければ、計画を立てるということでもありません。それは、自分の命の限界をすっかり忘れてしまっているということです。
人間は不思議なもので、財産があると寿命まで延びていくような錯覚を抱きがちです。そして、いつしか、富や財産が神のように自分を守ってくれると単純に思い込んでしまいます。
そのことについては、イエス・キリストご自身もルカによる福音書の中で、この思い違いを指摘しています。イエス・キリストはおっしゃいました。
「用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)。
そうおっしゃって、イエス・キリストは「愚かな金持ちのたとえ話」をなさいました。豊作で富を得て、安心しきっている愚かな金持ちに、神はおっしゃいます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。
富が当てにならないよりも前に、それを手にした人間の命の方がもっと当てにならないのです。しかし、この当てにならない命のことを、すっかり忘れてしまうのが人間です。富を手にすることで、将来の計画を立てやすくなったというのはその通りかも知れません。しかし、それは、「生きていれば」という前提がいつも伴うものです。
しかし、富を手に入れることで、命までもが自動的に更新延長されていくような錯覚に陥って、いつしか、何もかもが思い通りになると思い込んでしまいます。
本来ならば、知ることのできない自分の命について、もっと謙虚で、もっと畏れをもっていつも考えるべきところでしょう。
富が命を伸ばしてくれるのではなく、限りある命であることを知ることが、畏れと謙虚さをもって人生を堅実で豊かに歩ませてくれるのです。ヤコブはそのことを読者に思い起こさせています。
いえ、ヤコブが思い起こさせようとしていることは、命に限界があるということだけではありません。その命が造り主である神の御手の中にあるという謙虚な思いです。命は自分のものでもなければ、自分の思い通りにもならないものです。一人ひとりの命に対して、特別な支配権をもっておられるのは創造者であられる神お一人です。
もちろん、自分の命に対して、主である神がどのようなご計画をもっていらっしゃるか、それは誰にも知ることができません。いえ、知ることができないからこそ、真摯に生きることができるのではないでしょうか。
富を得ることで、神の領域である命さえも自分の手の内にあると思い込んでしまう、無意識の高慢さこそ、注意を払わなければならないことです。
ヤコブは「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」と語ります。前後の文脈から考えると、ここでいうなすべき善とは、命に対する真摯な畏れをもって、主の前に謙遜に生きる生き方を指しているのでしょう。どんなことをなすにしても、この謙虚さがなければ、結局は自分が神の座に座ってしまいます。それこそが、人間にとって根源的な罪です。
ヤコブがこの手紙の読者に願っていることは、この謙虚さをもって計画をたて、生涯を神の前に謙遜に生きることです。