2016年3月24日(木) 争いの原因とその対処(ヤコブ4:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
以前、こんな質問を受けたことがあります。それは、どうしてこの世の中から戦争がなくならないのですか、という質問でした。質問者がこの質問を投げかけたのには、時代の背景がありました。それは、第二次世界大戦が終わり、そのあと続いた東西の冷戦の時代が終わり、21世に突入しても、一向に平和の時代が訪れないということがあったからです。そればかりか、かえって、民族間の争いや、国同士の紛争が激化してきているように感じられるからです。しかも、そこに大国が介入して、ますます事態が深刻化しているように感じられるということが、この質問の背景にはあります。
質問者の質問には、もう一つの背景があります。それは信仰の問題にかかわる背景です。どうしてこの世の中から戦争がなくならないのですか、と問う時に、もし神がいるならば、戦争はなくなるはずだ、という前提がついて回っています。なるほど、神がいるのに戦争や争いが地上から無くならないのは納得がいきません。
けれども、争いや戦争がなくならないのは、ほんとうは神など存在しないからでしょうか。あるいは神がいたとしても、戦争をなくすだけの力がないからでしょうか。
きょう取り上げようとしている個所には、戦いや争いの問題が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 4章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
前回取り上げた個所には、上からの知恵に従って生きる生き方が求められました。上からの知恵に従って生きるということは、具体的な生活の中に、柔和な行いとして実を結ぶような生き方です。その場合の「柔和」とは、神への信頼からくる平安な思いが生み出す「優しさ」であり「穏やかさ」です。
それとは正反対にある地上の知恵は、神に対する信頼が欠けているために、心のうちに平安がなく、妬みにとらわれ、自分の利益の追求に終始する生き方です。
3章の最後に、ヤコブは「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と記しましたが、そうであるとするならば、人間の戦いや争いは、いったいどこから来るのでしょうか。
ヤコブは担当直入に書きます。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」
人間のうちにある欲望こそが、戦いと争いの原因であり、またそれを生み続ける力なのです。もちろん、欲望の実現が、誰の利益とも衝突しないのであれば、戦いも争いも起こらないでしょう。しかし、誰の利益ともぶつからない欲望などあり得ません。
誰かの利益とぶつかるために、願ったことのすべてが思い通りにかなえられないというのが現実です。その願った事柄がどんなに純真で崇高なものであったとしても、誰かの利益とぶつかるのであれば、まして、欲望に満ちた願いが、誰ともぶつからないなどということはあり得ないことです。
誰かの利益とぶつかるために、欲したものを容易に得ることができないというのは、争いが起こる原因の一つです。しかし、ヤコブは、もう少し違った視点で物事を考えています。
「得られないのは、願い求めないからだ」とヤコブは言います。
この場合の願い求める相手は、自分の欲望を実現するための直接の相手ではありません。あらゆる願いの必要性をご存じである神がその相手です。ほんとうに必要なことをご存じである神に、まず願い求めることの大切さをヤコブは指摘します。
逆に言えば、神に祈り求められないような願いは、最初から実現する可能性のない願いです。そして、神に願い求める願いのすべてが、純真な心から出るものばかりとも限りません。たとえどんなに本人がそうだと思っても、神の目から見るときに、地上的な思いがそこに紛れ込んでいることがあるからです。
ヤコブは言います。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」
もちろん、聞かれない祈りのすべてが、間違った動機で願い求めているからだというわけではありません。ここでは、聞かれない祈りに直面したとき、まず、自分の願いが純真なものであるかどうか、謙虚に省みる姿勢が問われています。もし、自分の願いを謙虚に点検し、神の御心を切に求めるのであれば、たとえ実現しない祈りに直面したとしても、そこから争いが起こることはないからです。
反対に、それでもなお自分の願いを実現しようと奔走するときに争いが起こります。しかも、その争いの究極の相手は、当事者である相手の人間ではなく、神を敵とすることです。
神の妬むほどの愛を信じるということは、言いかえれば、神に謙虚に従うことであり、反対に高慢にも、神の御心を曲げようとする者は、神の敵対者となることです。
人間の中に起こる争いと戦いを克服するために何よりも大切なことは、神に正しく求め、その答えを謙虚に受け止めることです。そして、その祈りの答えがどんなものであったとしても、それを超えて与えられるもっと豊かな恵みを期待して信じることです。