2016年3月10日(木) 舌の災い(ヤコブ3:6-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の箴言の中には、舌や口についての格言がたくさん出てきます。たとえば、「口数が多ければ罪は避けえない。 唇を制すれば成功する」(箴言10:19)。「自分の口を警戒する者は命を守る。 いたずらに唇を開く者は滅びる」(箴言13:3)。「死も生も舌の力に支配される。 舌を愛する者はその実りを食らう」(箴言)。

 どの格言も、舌や口に関して、ネガティブな面だけを語っているわけではありません。使い方次第で、死や罪にも通じれば、命や成功にも結びつくことができる「諸刃の剣」のようであると教えています。

 けれども、この諸刃の剣を使いこなすことは、簡単なことではありません。きょう取り上げようとしている個所には、舌が招く災いが語られています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 3章6節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

 前回に引き続いて、言葉がもたらす災いについて、ヤコブは語っています。そもそも、ヤコブが舌や言葉についてのテーマを取り上げたのは、教会の教師の職に多くの者はつかない方がよい、という言葉を受けてのことでした。

 キリスト教会は「言葉の宗教」と言われるように、聖書にしるされた神の言葉を重んじます。その教えを教えを解き明かす教職者は、言葉で教えを伝える人です。しかし、キリスト教は口先だけの宗教という意味では決してありません。言葉で教えを伝えると同時に、教えの中心にある福音に相応しく生きることが求められています。

 ヤコブがこの手紙の中で今まで語ってきたことは、学んだ教えと行いとが乖離してしまっている教会の現状でした。そのような人がどんなに聖書の真理を語ったとしても説得力がありません。

 もちろん、完ぺきな人など誰もいないことは、ヤコブ自身も認めていることです。前回取り上げた個所にも出てきましたが、「わたしたちは皆、度々過ちを犯す」、そういう存在です(ヤコブ3:2)。ヤコブはこれまでにも行いを強調してきましたが、それは決して行いによって救われる、という意味ではありませんでした。むしろ、罪赦されて救われたからこそ、神の御言葉に立って生きることの大切さを説いてきたのです。

 そのような神の言葉に立って生きようとする上で、その人が語る言葉ほど、人を躓かせ、人を欺くものはありません。

 ヤコブはこの手紙の中で、差別の問題を扱いましたが、そこで扱った例は、心の中の差別的な思いが、言葉となって表れた例でした。立派な身なりの人には好意的な言葉をかけ、見るからに貧しい人には冷たい言葉をかけるというものでした。

 また信仰と行いに関して書き記すとき、ヤコブは、着る物もなく食べるにも事欠いている兄弟姉妹に対する態度について記しました。それは、ただ何もしないという行いの欠如ではなく、言葉では励ましながら、行いでは何もしないという、態度が言葉を裏切っている場合でした。

 それらはどれも、言葉が人をいっそう傷つけてしまう例です。

 きょうの個所でヤコブは「舌は火だ」と言います。それは前回取り上げた個所の最後に記された言葉を受けての発言です。そこには、こう書いてありました。

 「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」

 舌もまた小さな器官です。しかし、火と同じように、どんなに些細な小さな言葉であっても、全人格に悪い影響を与え、相手を傷つけ、自分をも滅びに至らせるからです。

 では、舌さえ制することができれば、それで問題は解決できるのでしょうか。確かにそうかもしれません。番組の冒頭で挙げた、箴言の中に出てくる舌や言葉に関する教えも、半分は舌を制することがもたらす益に関する教えでした。しかし、舌を制することがどれほど難しいのかは、舌がもたらすネガティブな結果に関わる箴言の言葉の存在そのものが示している通りです。

 舌をコントロールすることができれば、命さえももたらすことができると教えられていても、現実は舌をコントロールできずに、破滅にいたる場合が圧倒的に多いのです。

 ヤコブは舌を制御することが容易でないことを、こう述べます。

 「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。」

 あらゆる生き物を治めることは、神によって人間に命じられたことでした。もちろん、それすら容易なことではありません。しかし、どうにかこうにかそれを果たしてきたとしても、それよりも小さな器官である舌を制御できる人は一人もいません、とヤコブは言い切ります。

 ヤコブは、舌には毒が満ちている、と語りますが、舌の毒が厄介なのは、同じ舌が、主を賛美もし、同時に人を呪いもするからです。

 舌が悪さしかしないのであれば、不要な器官として切り取ってしまえばよいでしょう。悪さしかしないとわかっていれば、その舌が語ることに躓くことも傷つくこともないでしょう。しかし、厄介なのは、同じ舌が、主を賛美したり、人を励ましたり、親切な言葉を紡ぎだすからです。そのギャップに余計人は傷つきます。

 では、このどうすることもできない舌について、ヤコブはこの手紙の読者に何を期待したのでしょうか。

 だから、「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」というのも一つのことでしょう。しかし、それだけではないでしょう。たとえ容易に舌をコントロールすることができないとしても、舌の毒について、熟知していることは大切です。語る言葉を選び、慎重になることができるからです。