2016年2月25日(木) 行いを伴わない信仰のむなしさ(ヤコブ2:14-19)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
洗礼はゴールではなくスタートだ、としばしば言われます。洗礼によってすべてが完結し、完成するわけではないからです。「新しく生まれる」という言葉が示しているように、キリストを信じる者として新たに生まれた人が、これから成長していくためのスタートを切ったということに他なりません。
そして、信仰者として生きるということは、生きることが「信仰」と切り離されてはなりませんし、信仰は信仰、行いは行い、と二重の規準で生きることでもありません。
しかし、「行いによってではなく、信仰によって救われた」という聖書の教えを誤解して、信じて救われたのちも、善い行いをしなくても良いと考えてしまう誤りに知らず知らずのうちに陥りがちです。ヤコブが問題としているのは、信仰によって救われるという信仰義認の教えそのものではなく、それを誤解して、信仰者としての生き方をあいまいにしてしまっている人たちです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 2章20節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
きょう取り上げた個所は、特にパウロが主張してきた「行いによってではなく信仰によって救われる」という教えと、一見正反対のことを述べているように感じられます。実際字面だけを比べてみれば、ヤコブははっきりと「行いによって、義とされた」と、旧約聖書のアブラハムとラハブの例を挙げて繰り返しています。
しかし、まず、ここで注意しなければならないことは、ヤコブは、信仰の必要性を否定しているのでもなければ、救われるためには信仰よりも行いの方が大切だ、と言っているのでもないということです。
そういう意味で、パウロが聖書で語っていることと、ヤコブがここで語っていることは、正面から対立しているわけではありません。
パウロが問題としているのは、人は行いによって救われると考える人たちの教えであり、ヤコブが問題としているのは、信じたあとも、神の御心を第一として従おうとしない人たちの生き方です。
ヤコブが例に挙げた、二人の人物、…行いによって義とされたと言われているアブラハムの例とラハブの例は、どちらも神を信じているということが二人の前提にあります。全く真の神への信仰がないのに、何か良いことをして義とされた人の話ではありません。
アブラハムについては言うまでもありません。ヤコブが引用している「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という話が出てくるのは、創世記の15章です。同じ聖書の個所はパウロによっても引用されて、信仰によって義とされるという教えの根拠とされてきました。というのは、創世記の17章に出てくるアブラハムの割礼の話よりも前に、アブラハムは信じて義とされたのだから、人は割礼という行いによってではなく、信仰によってだけ義とされると結論付けられるからです(ローマ4章参照)。
けれども、ヤコブはパウロと同じ聖書の個所を引用しながら、創世記の22章に記された出来事を引用して、神がアブラハムを義とされたのは「息子イサクを祭壇の上に献げるという行いによって(である)」という言い方をします(ヤコブ2:22)。しかし、そのすぐ後で、「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」と補足します。
アブラハムには信仰が全くなかったのに、自分で考えて行動した結果、その行いが神に認められて義とされた、と、ヤコブはそのように述べているのではありません。すでに信じて義とされていたアブラハムが、その信仰に促されて、息子イサクを献るという行動によって、信仰が完成された、と、こう言っているのです。言い換えれば、アブラハムには既に信仰があり、その信仰が行いと密接に結びついて完成へと高められていったということです。ヤコブが述べている、「行いによる義」の中身は、そういうことなのです。
異邦人であったラハブの場合も同様です。ラハブに全く主なる神に対する信仰がなかったのではありません。イスラエルの神のことを耳にし、それが真実だと信じたからこそ、イスラエル人の使いの者たちをかくまったのでした。そのラハブの取った行動は、神に対する信仰の結果です。
言い換えれば、アブラハムもラハブも、神を信じ、畏れ敬っていたので、神の御心にかなうと信じるところに従って、行動をとったのです。ヤコブが示そうとしているのは、この信仰に従う生き方です。それを抜きにして、信仰についても善き行いについても語ることはできません。
ヤコブが懸念していることは、信仰から行いが切り離されてしまうことです。そして切り離されていても、それに対して何の疑問も感じないことです。ヤコブはそのような行いの伴わない信仰のことを、死んだ信仰だと表現しています。死からは何も生み出されないからです。
いったいどうしてヤコブはこのようなことを書かなければならなかったのでしょうか。その背景を想像します。
パウロの時代と背景とは、明らかに違ったものをそこに感じます。パウロが論争している相手は、ユダヤ教を信じるユダヤ人か、あるいは、ユダヤ教の教えから影響を色濃く受けているユダヤ人クリスチャンたちです。律法の行い、とりわけ割礼の有無を義とされる条件としていた人たちでした。
しかし、ヤコブが想定している相手は、それとはまったく異なる人たちです。おそらくは、パウロの教えが広くいきわたり、信仰によって義とされるという福音的なキリスト教理解に立つ人たちであったでしょう。しかし、その信仰が生活から遊離してしまっている、そういう人たちです。
神を信じて、その信仰に従って生きること、信仰と生活を分離させないこと、そのことを聖書は願っているのです。