2016年2月18日(木) 行いを伴わない信仰のむなしさ(ヤコブ2:14-19)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「信仰」か「行い」か、この二つはしばしば対立するものとして描かれます。確かに、人が救われるのは、信仰によってか、それとも行いによってか、と聞かれるならば、間違いなく、キリストを信じる信仰だけが人を救いに至らせるのだ、とそう答えます。
では、そのような教えは、結局、人を怠惰にさせ、善き行いを軽んじるようにさせるのではないか、という疑問を抱かせます。それに対しても、聖書は、信仰によってキリストの義をいただいて救われたからこそ、むしろいっそう神に感謝して、善き行いに励むようになるのだと教えています。少なくとも宗教改革者たちは、そのように聖書の真理を読みました。
しかし、救われたのちに怠惰に陥り、感謝の気持ちを忘れてしまう、ということが、現実の信者に起こりえることは、否定できません。もし、起こりえないのだとすれば、ヤコブがこのような内容の手紙を書く必要はまったくなかったことでしょう。ヤコブが問題としている信仰の在り方について、注意深く学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 2章14節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
ヤコブがこの手紙の中で取りあげている問題は、前回の学びの中でも指摘した通り、想定した問題というよりは、現実の教会の中で実際に起こっている問題です。「もし」という仮定の表現を使ってはいますが、しかし、教会の中で起こっている分け隔ては、もはや放置することができないほどのものです。
やもめや孤児や貧しい者たちが、残念ながら差別されているというのが、ヤコブが手紙を書き送っている信徒たちの現実です(ヤコブ1:27-2:6)。場所は異なりますが、実際、使徒言行録の6章には、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちへの差別が、エルサレムの教会の中で起こったことが報告されています。
しかし、そうだからと言って、彼らは本当は救われていないからだ、とか、エルサレムの教会はほんとうの教会ではないからだ、と決めつけることはできません。
ヤコブもまた教会の中で起こっている現実を目にし、耳にして、心を痛めているからこそ、こうして手紙を書き送っているのでしょう。もし、この手紙の受取人がほんとうの教会でもなければ、ほんとうの信徒でもないとしたら、そもそも手紙を書く必要もなかったでしょう。少なくともヤコブは、主にある兄弟として、同じ主によって救われた兄弟たちに心をこめてこの手紙を書いています。
ヤコブはここで、信仰の在り方を問題としています。その場合、決して「信仰」か「行いか」という二者択一の単純な問題ではありません、ヤコブは「信仰」か「行い」か、両者を対立的に捉えてはいません。ヤコブが対立させているのは、「行いの伴った信仰」と「行いを伴わない信仰」です。
では、ヤコブがここで考えている「行いを伴わない信仰」とは、どういうものでしょうか。
それは、2章19節に記されているとおり、「神は唯一だ」と信じる信仰です。その信仰が信じている内容は、聖書に記されている通り、唯一の神を信じる信仰で、何の誤りもありません。しかしそれは言い換えれば、知識に対する知的な同意といっても良いかもしれません。
もちろん、このこと自体を、それは信仰ではないと否定することはできません。信仰に知識が伴わなければ、それは「いわしの頭も信心」というのと同じです。
ヤコブが問題としているのは、ただ神について知っているということに留まっている信仰です。神についてどんなに知っていたとしても、それが神を畏れ敬い、神の望む生き方へと人を動かすのでなければ、それでは意味がないとヤコブは考えます。
聖書に示された神を知り、その神が願う人間としての生き方を考え、そう生きようと願うこと、そこまでを含めて、ヤコブは信仰というものを捉えています。
ヤコブはここで、「善い行い」それ自体を問題としているわけではありません。そうではなく、唯一の神を信じるということが、知識にのみ留まることを許さないということです。
当たり前のことですが、人間の行いには、それを動かす動機や価値観があります。神を信じていると言いながら、しかし、神を信じて生きる価値観とは全く違った生き方をしているとすれば、それは矛盾しています。皮肉にもヤコブが指摘している通り、もし、神について知っているということを信仰というのであれば、悪魔でさえも熱心な信仰者ということになってしまいます。
ヤコブは具体的な例を挙げて、神を信じて生きるということがどういうことかを示そうとしています。
ヤコブが挙げている例は、着る物にも食べるにも事欠いている人への対応です。もちろん、人道的な立場から、当然援助の手を差し伸べるべきだ、というのもひとつの答えかも知れません。しかし、ヤコブは、このような例を挙げて、聖書の神を信じることが、このことをどう取り扱うようにとわたしたちを導くのか、そのことを考えさせようとしているのです。
同じ神によって造られた、わたしと同じ人間だ、と信じているのであれば、手を差し伸べることは、信仰から必然的に導き出される結論です。まして、相手が同じ主を信じて救われた人であれば、主がその貴い血潮で贖いとった相手なのですから、いっそう重んじなければならないのは当然の結論です。
信仰をその人の生き方から切り離してしまうことこそ危険です。この手紙を書いているヤコブとしばしば対比されるパウロもまた、このことを積極的に表現して、「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5:6)と表現しています。そもそも愛の実践を生み出すようにと信仰は働くのです。ヤコブもそう願えばこそ、この手紙をキリスト者へ宛てて書いているのです。