2016年1月7日(木) 神の言葉に聞く(ヤコブ1:18-21)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書に記された律法について、今の時代を生きる私たちがそれをどう捉えるかは、とても大切な問題です。確かに、神の定めた掟を完全には守ることができないのがわたしたち人間です。神の御前にすべての人は罪人であるといわれる通りです。そうであれば、救われるためにはただ赦しを乞うほかありません。
幸いなことに、キリストが身代わりとなって、律法の要求を全て満たしてくださいました。そのキリストのなしてくださったことを、私のためと信じるだけで、恵み深くも神は、律法違反のわたしたちの罪をすべて赦してくださいます。
では、そのようにして罪赦されて救われた今は、もはや道徳的な意味での律法からは完全に解放されたということでしょうか。確かに、律法違反の罪で責任を負わされることは二度とありません。しかし、律法が求めていることは、今も変わることがありません。神を愛し、人を愛すること、このことはどんなに時代が変わっても、変わることなく人間に求められています。罪が赦されている今は、いっそうこの恵みの中に生きて、神と人とを愛する生き方が求められています。それは義務感からではなく、恵みに対する感謝の気持ちとして、心から神と人とを愛そうとする思いによって実現していくものです。
けれども、このことはいつも正しく心に留めておかなければ、実現することは困難です。ヤコブが扱っている信仰生活のテーマは、罪赦されて救われた者が、その信仰生活をどう正しく、またふさわしく生きていくか、ということと深くかかわっています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 1章18節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
ここでヤコブは読者に対して、「よくわきまえていなさい」と呼びかけます。この翻訳には二通りの訳が可能です。新共同訳聖書のように命令の言葉ととるか、あるいは新改訳聖書のように「知っています」と平叙文と理解するか、文法的にはどちらの可能性もあります。平叙文ととれば、この手紙の読者はすでに知識を持っていることになります。
しかし、命令文ととれば、この手紙の読者は、全く知らなかったのか、あるいは知っていてもすっかり忘れてしまったのかのどちらかです。「知れ」という命令は、ある意味、無知に対する呆れた気持ちや非難の思いも込められているでしょう。
さらに問題なのは、「何を知るのか」あるいは「何を知っているのか」、目的語がありません。新改訳聖書は「そのことを」という言葉を補って、「そのことを知っています」と訳しています。「そのこと」というのは、直前のことを指して使います。つまり、神が御心のままに、真理の言葉によって、わたしたちが被造物の初穂となるように、わたしたちを生んでくださったということ、そのことを知っています、という意味です。
それに対して、口語訳聖書は「このことを」という言葉を補って、「このことを知っておきなさい」と翻訳しています。「このこと」というのは、直前の言葉を受ける場合もありますが、これから言おうとしている内容を指す場合もあります。口語訳聖書も新共同訳聖書も、知るべき内容は、後に続いて述べられる事柄をさしているという理解だと思われます。つまり、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」ということを知っておくべきだということです。
そもそも、「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅い」ということが言われているのは、人間の現実が、それとは裏腹だからでしょう。ろくに聞きもしないで、間違ったことを話し始めたり、挙句の果て、事実とは違っているのに怒り出したり、そういうのが人間の弱さです。しかし、ここでは一般論として、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅くあるべきだ、と命じているのではありません。
「聞くのに早い」と言われているのは、前後の文脈から考えて、その聞くべき対象は「神の御言葉」です。他人の言うことにもっとよく耳を傾けなさなさい、という意味ではありません。神が語ることに耳を傾けるようにというのが、ここでヤコブの言おうとしているポイントです。
そもそも、直前の節、18節で言われている通り、神が真理の言葉によってわたしたちを生んでくださったのですから、何を差し置いても神の言葉に耳を傾けるのは当然です。さらに先を読むと、聞いているばかりではなく、御言葉を行う人になりなさい、とさえ言われます(22節)。まず神の言葉に聞き入り、そして、それを行うこと。そういう流れの中でヤコブは語っています。
神の言葉にろくに聞きもしないで語ることは、間違いの始まりです。まして、それが原因で、自分勝手な正義感で怒りを爆発させて他人を断罪するとなれば、取り返しのつかない過ちです。何よりも、自分が語ろうとしていることが、神の御言葉に合致しているか、自分の心の中の怒りが、神の御心に沿ったものであるのか、神の言葉に聞き入る必要があります。
ヤコブは「人の怒りは神の義を実現しない」と痛烈な批判を述べます。人間の正義ほどあてにならないものはありません。なぜなら、人は皆、自分自身が正義の基準だからです。そうであればこそ、神の言葉に耳を傾け、神の御心を学ぶ必要があります。
神の御言葉に聞くために、ヤコブは、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去るようにと命じています。人間はひとたび邪悪な思いに染まると、どんなことでも自分を正当化しようとしがちです。自分を正当化しようとすればするほど、神の言葉に耳を閉ざすか、あるいは自分に都合のいいことだけしか聞かなくなります。
ヤコブは、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去れ、と言っています。「素直に」という言葉が、新共同訳聖書のように「捨て去りなさい」にかかるのか、それとも新改訳聖書や口語訳聖書のように「御言葉を受け入れなさい」にかかるのか、文法的にはどちらにも取れます。一見、「素直に御言葉を受け入れる」と取る方が、信仰的な文章にふさわしいように感じられます。
しかし「汚れや悪を素直に捨て去りなさい」という翻訳にも一理あります。「汚れや悪」を「汚れや悪」として認めようとしない心の頑なさが人間にはあります。だからこそ素直になって、自分の汚れや悪を認める必要があるのです。
最後に、ヤコブは「心に植え付けられた御言葉」という表現を使っています。ヤコブが前提としているのは、御言葉を聞いたこともない人ではありません。真理の言葉によって生まれ、御言葉を信じている人です。そうであればこそ、心に刻まれた神の言葉に聞き大切にできる人です。これは記憶力の問題ではありません。神の言葉に聞き入り、従おうと願う信仰の問題です。