2015年12月10日(木) 真実な証言(ヨハネ21:24-25)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 長い間ご一緒に学んできましたヨハネによる福音書の学びも、きょうで最後になりました。少し急ぎ足でしたが、最後までラジオを聴いてくださっているあなたとご一緒に読み通すことができて、本当に嬉しく思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 21章24〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

 きょうお読みした個所はヨハネ福音書の第二の結びの言葉とでも言うべき個所です。既にご一緒に学びましたが、ヨハネ福音書は20章の30節と31節で一度結びの言葉が語られて、一旦終わったように見えます。しかし、再び21章が新たに加えられて、もう一度結びの言葉がおしまいに記されています。

 この言葉は注意深く読むと、すぐおわかりのように、「わたしたち」と自分たちのことを呼んでいる一団の人たちによって記された言葉です。もちろん、本の著者は自分一人であっても、自分のことを「我々」という表現をすることがあります。しかし、その場合であっても、その書き手を支持する一団の人々が想定されているわけです。ここでも、「わたしたち」と自分たちを名乗る人たちによって、信じる者たちの共同体が明確に意識されているといってよいと思います。

 この信仰の共同体によれば、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」と証言されています。「この弟子」というのは、直前のところで言われている、イエスが愛した弟子のことです。このヨハネ福音書の中には、しばしばイエスが愛した弟子のことが言及されてきました。最後の晩餐のときにイエスのすぐそばにいた弟子として、また、十字架にかけられたイエスの足元に、イエスの母マリアと共にいた弟子として、また、イエスが葬られたお墓が空っぽになったと聞かされて、真っ先に駆け出して行った弟子の一人として、このイエスに愛された弟子のことは繰り返しこの福音書に出てきました。そして、今や、「わたしたち」と呼ばれるこの人たちによって、この弟子こそ「これらのことを書いた」と証言されています。

 ところで「これらのことを書いた」という表現は、いろいろな意味に理解される表現です。「これら」というのは、直前の出来事だけを指していっているのか、あるいは、21章に記された出来事全体を指して言っているのか、あるいは、この福音書全体を指して言っているのか不明です。ただ、その後に続く25節の言葉…「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれない」という言葉から判断して、この福音書に記されている事柄全体についていっているのだと思われます。

 ただし、「書いた」というのは自分で筆を取って書いたと言う意味なのか、それとも、誰かにそれを書かせたということも含むのか、あるいは、この福音書の核になるようなものを残したと言う意味なのか色々に取れます。しかし、いずれにしても、「わたしたち」と自分たちのことを呼んでいる一団の人々が、この福音書の読者に悟らせようとしている事柄は、この福音書に記されている事柄が、真実なものであるという保証なのです。

 どうしてそんなこととわざわざ記したのか、もちろん、このような書物を書くからには、最初から真実であることを確信して書いたはずです。だれかが保証するまでもなく、真実な証しは真実です。ただ、もし、この言葉を書いた「わたしたち」と自分たちを呼んでいる人たちが、他の三つの福音書を意識してこのことを書いたのだとしたら、それは意味のあることかもしれません。なぜなら、ヨハネ福音書は他の三つの福音書と比べて著しく違った印象を受けるからです。そこで、他の福音書と違ったように感じられるこの福音書が、他の福音書と少しも変わることなく真実なものであることを証言しているのかもしれません。

 ところでイエスが愛した弟子の証言が真実であるということの意味は、どう言うことなのでしょうか。確かに、イエスから愛され、イエスのすぐ側で行動を共にした目撃者の証言ということであれば、その証しが真実なことは言うまでもありません。しかし、「彼の証しが真実である」と言うことの意味はそれだけに留まるものではありません。なぜなら、このイエスから愛された弟子が証していることは、真理そのものでいらっしゃるイエス・キリストに関わる証しだからです。「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃられるイエス・キリストに関わる証言であると言う意味でも、この弟子の証しは真実な証しと言うことが出来ます。

 そのうえ、さらに言うとすれば、キリストは弟子たちに真理の御霊を与えてくださると約束してくださっていました。聖霊はイエス・キリストの言葉を思い起こさせてくださいます。その聖霊の導きの中で記された証言であるからこそ、この弟子の証言は真実だと言うことが出来ます。

 この福音書の最後の言葉は、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」という言葉です。これはすでに、20章30節の繰り返しとも思える言葉です。

 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。」

 何故書かれていないのか、その理由は明白です。何故なら、あまりの量の多さに、そのような企ては徒労に終わるからです。逆にいえば、限られたスペースに書きとどめられたイエスの愛する弟子の証言は、その分量が少ないにもかかわらず、真実なものとして受け止めるのに十分であると言うことです。

 聖書に書きとどめられた福音書以外に、イエス・キリストの言葉を探す必要はありません。救いにかかわるキリストの教えと御業は、聖書に必要十分に書き記されています。

 このイエスの愛する弟子の証言を通して、イエス・キリストへと導かれ、このお方を通して示される恵みと真とに触れることが出来るのです。