2015年12月3日(木) キリストの招きに従う(ヨハネ21:18-23)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教の話をしていて、時々、こんな人たちに出会うことがあります。話が終わった後で、自分のことよりも、他の人のことが真っ先に心配になって、いろいろと質問を寄せて来る方たちです。…自分のお父さんやお母さんはどうなるんでしょうか。救われるんでしょうか。夫や、あるいは妻はどうなるんでしょう。
それらの質問が、暗に自分はキリスト教の話は聞きたくないと言っているだけでしたら、それはそれで仕方のないことだと思います。けれども、自分よりも本当にほかの人のことを真っ先に心配しているのだとしたら、もう少し自分自身のことにも心を配って欲しいものだと思うときがあります。もちろん、自分のことしか考えられない人たちよりも、いつも他の人たちについて心を配り、気を遣っているということはすばらしいことだと思います。けれども、自分にとって大切な問題であればあるほど、まず自分自身の決断を優先させなければならないときがあるのではないかと思います。
さて、きょうお読みする箇所には、イエス・キリストから、「わたしに従いなさい」と言われたペトロが、一瞬脇に目をそらして、自分の同僚の身を案じる姿が描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 21章18〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
先週は、三度まで「私を愛するか」とイエス・キリストから尋ねられたペトロの姿を学びました。その質問に一回ごとに誠実に答えるペトロに対して、信じる者たちの群れを養うようにとキリストはペトロにお命じになりました。
きょうのお話はその続きから始ります。イエス・キリストは、ご自分の羊を飼うよにとペトロに命じた後で、不思議にも、ペトロがどんな死に方をするのか、お語りになります。受け取り方によっては、心をくじくような発言です。しかし、また、それはキリストの羊の世話をすることが、どれほど困難に満ちたものであるのかを、ペトロに覚悟させる言葉でもあります。
しかし、キリストがこのことをお語りになったのは、ただペトロの死にざまを予告するためではありませんでした。それがどんな最後であれ、「神の栄光を現すようになる」という約束が伴っています。ペトロの生涯の終わり方は、人間的な目から見れば、自由を奪われた最後であるかもしれません。しかし、そこには神の栄光を現すという栄誉が伴っています。
さて、このことを語った後で、イエス・キリストはペトロに対して「私に従ってきなさい」と声をかけられます。
「私に従ってきなさい」と声をかけられたペトロは、一瞬招いてくださる主イエス・キリストから目を離して、そばにいたイエスの愛しておられた弟子に目をやります。このイエスの愛しておられた弟子というのは、あとのところで、この福音書を書いた人物だと紹介されます。すでにこのヨハネ福音書の中では、最後の晩餐のときイエスの側近くに座っていた人物として紹介されています。また、キリストの十字架刑が執行されているとき、イエスの足元にいた弟子としても紹介されています。
そのイエスが愛しておられた弟子がついてくるのをペトロが見たとき、ペトロはこの仲間のことが気になったのでしょう。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。ペトロは主イエスに尋ねました。
ペトロは、主イエス・キリストから、「私に従ってきなさい」と招かれるとき、自分の将来について、決して明るい見通しを聞かされませんでした。ペトロがどんな死に方で死のうとしているのか、そのことを暗示する言葉をいただいたのです。
ですから、ペトロにとって、その弟子の将来のことも気がかりになったとしても無理はありません。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」…ペトロは他人ごとならない思いで、この質問をイエス・キリストにぶつけてみました。
ところが、キリストのお答えは、意外にもつれない返事でした。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」
ペトロと同じような最後を迎えるとも、また、ペトロよりもずっと生き延びるとも、イエスは教えてくださいませんでした。そんなことがいったいペトロに与えられた使命と何の関係があるのかと主イエスはおっしゃいます。そうおっしゃって、イエスはペトロに「あなたは、わたしに従いなさい」と、もう一度お招きになります。
ペトロをペトロなりの働きに、主は召していてくださっています。他の弟子たちがどうなるのか、ということは、二の次でしかありません。神の御前で、自分に与えられた務めを受け取るとは、そう言うことなのだと思います。一人一人が主に目を注ぎ、主が召してくださるその働きの場で、主に従って行くこと、その大切さを教えられます。
ヨハネ福音書は、他の福音書と異なり、ペトロと並んで、イエスが愛した弟子のことが言及されています。確かに、ヨハネ福音書の中では、このイエスに愛された弟子には特別な敬意が与えられているようにも感じ取れなくはありません。けれども、そのことは、他の福音書に描かれるような一番弟子としてのペトロの姿を薄めることではありません。一人一人が主の前に立って、「私に従ってきなさい」と招いてくださるイエス・キリストだけを見つめて、このお方に従っていく決断こそが大切なのです。