2015年11月26日(木) わたしを愛しているか(ヨハネ21:15-19)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「ばつが悪い」と言う表現がありますが、「きまりが悪い」とか「その場の具合がよくない」という意味で使います。聖書の中でばつの悪い思いをした人の話といえば、復活した主イエス・キリストに再び会った弟子のペトロほどきまりの悪い思いをした人はいないだろうと思います。たとえ他の弟子たちがキリストを見捨てて逃げようとも、自分だけは命を捨ててでもお従いすると大見えを切ったペトロです。けれども、一日も経たないうちにキリストなど知らないと言ってしまったのでした。それで、キリストと二度と会うことがなければ、恥ずかしい思いもしなかったかもしれません。しかし、復活したキリストに出会い、「私のことを愛しているか」と何度も繰り返し問われたペトロの気持ちは、どれほど身の縮む思いであっただろうかと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 21章15節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 誰の生涯にも忘れられない出来事というのがあると思いますが、ペトロにとっては、きょうお読みしたこの日の出来事ほど、思い出に残るものはなかったのではないかと思います。確かに、以前「キリストを知らない」と言って、自分とキリストとの関係を否定してしまった事件は、ペトロにとって、心の傷になるような出来事でした。ヨハネ福音書には記されていませんが、ペトロがキリストとの関係を否定してしまったその場面で、「主は振り向いてペトロを見つめられた」とルカ福音書は記しています(ルカ22:61)。このキリストのまなざしは、ペトロにとって、心を刺し通されるような鋭さと感じられたことだろうと思います。自分の弱さを悟ったペトロは「激しく泣いた」と聖書には記されています。それはペトロにとって衝撃的な出来事だったに違いありません。

 けれども、それにもまして、きょうお読みした出来事は、ペトロにとっては生涯忘れられない出来事であっただろうと思います。その後のペトロの生涯にとって大きな力を与えた出来事だったに違いありません。

 さて、復活の主イエス・キリストとペトロとの間に交わされた会話を見てみたいと思います。

 ガリラヤ湖畔で弟子たちと朝の食事を一緒に取られた復活のキリストは、シモン・ペトロにこう問い掛けられました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」

 「この人たち以上に」という言葉を聞いて、ペトロは、かつて自分が口にした言葉を思い出したはずです。

 「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)

 自分には他の弟子よりも勝れた力があると信じていたペトロでしたが、あの日、主イエスを置き去りにして逃げ出してしまった自分の行動を思いだすと、「この人たち以上に」キリストを愛しているとは、言えるはずもありませんでした。

 ペトロの答えは、とても控えめです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」

 「この人たちが愛する以上に愛しています」という答えはしませんでした。もう自分の弱さは重々知っていたからです。他の弟子たちを差し置いて、自分だけが立派に主イエスを愛し通すことが出きるなどといえるはずもありません。けれども、「いいえ、わたしはあなたを愛していません」という答えもペトロには出来ませんでした。「主を知らない」といって逃げ出してしまう弱さもありましたが、それでも主イエス・キリストを愛する気持ちは否定できなかったからです。ペトロは、キリストを愛するその愛が、大きいとも小さいとも自分では何も言わないで、ただ、主イエス・キリストの判断に委ねて、「あなたがご存知です」と答えたのです。

 この「わたしを愛しているか」というキリストからの問いかけは、三度繰り返されました。三度目に同じことを尋ねられたペトロは「悲しくなった」と記されています。それは、かつてキリストを三度知らないと否定してしまった自分の弱さを思い出したからでしょう。

 けれども、キリストは三度同じ質問をペトロに繰り返されましたが、ペトロの答えが返ってくるたびに、イエスはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と命じられたのです。「お前はわたしのことを見捨てて逃げたではないか」などと、責めたりはしませんでした。キリストはそのことに触れないと言うことを通して、ペトロを赦し、ペトロを受け入れていることを示していらっしゃるのです。

 ペトロがこれから委ねられている働き、羊を飼うということ、キリストを信じる者たちを養い育てていくという務めに遣わすに当って、キリストは、ペトロがキリストを愛する以上に、キリストご自身がペトロを深く愛されて、ペトロを赦し、受け入れていらっしゃることをお示しになったのです。この言外に現れたキリストの深い愛に触れてこそ、ペトロは新しい生涯をやり直すことが出来たのではないでしょうか。