2015年11月19日(木) 主だ!(ヨハネ21:1-14)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ヨハネ福音書の学びもいよいよ最後の章になりました。ヨハネ福音書はもう一度復活したキリストと弟子たちとの出会いを描いて福音書を閉じます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 21章1節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から200ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
先週はヨハネ福音書がなぜ書かれたのか、と言うことを、著者自身の言葉によって学びました。そこで、一旦福音書は完結したように見えるのですが、しかし、再びヨハネは筆をとって、復活の主イエス・キリストとの出会いを書き記します。完結したものに付け加えるのは、あまりスマートな文章とは言えない気がします。現代流の編集者なら、きっと全体の構成をやり直したくなってしまうでしょう。けれども、かえって、整えられていないだけに、起こった出来事が生き生きと描かれていて身近なものとして感じることが出来ます。
さて、21章の出来事は、再び場面がガリラヤ湖畔へ戻ります。「ティベリアス湖」とあるのは、ペトロたちが漁を生業としていたガリラヤ湖の別名です。ヨハネ福音書は今までエルサレムで起こった出来事をおもに記してきました。十字架の出来事も復活の出来事も、そして、復活の主イエス・キリストとの出会いも、すべてエルサレム周辺で起こった出来事でした。
どうして、弟子たちが再びガリラヤへ戻ってしまったのか、その理由はヨハネ福音書には記されていません。弟子たちは、今まで通り、再び漁師としての仕事を続けています。あの十字架と復活と言う非日常的な事件の後で、やっと平静な日々を取り戻しつつあるような、そういう弟子の姿が描かれています。弟子たちはいったい何を思いながら漁をしていたのでしょうか。きっと主イエス・キリストとともに過ごした日々を思い出しながら、昔自分たちがしていた仕事に復帰していたのではないでしょうか。
「わたしは漁に行く」と言い出したペトロの言葉につられるように、他の弟子たちも一緒に行こうと舟を漕ぎ出します。一緒に出掛けたのは、ペトロを含めて七人の弟子たちでした。けれども、何も取れないまま、その日の夜は明けて行きました。1匹も魚が取れない日というのが一体どれくらいあるのか、私には分かりませんが、それでも、ガリラヤ湖の漁師たちにとっては、これが初めての経験ではありませんでした。ルカによる福音の5章にも、同じように一晩中漁をしても、1匹も魚が取れない日があったことが記されています。とはいえ、久しぶりに漁を始めた弟子たちにとって、それはきっと出端をくじかれるような思いだっただろうと想像します。
この息消沈した弟子たちを岸辺で出迎えたのは、ほかならぬ復活の主イエス・キリストだでした。「何か、食べるものがあるか」とキリストは漁から戻った弟子たちに問いかけます。
すでにエルサレムにいるとき、復活のキリストにお目にかかっている弟子たちでしたから、岸辺に立っている人物が誰であるかは容易に判断ができそうなものです。けれども、不思議なことに彼らには見分けることが出来なかったのです。もちろん、夜が明けたばかりの薄明かりの中で、人の姿を見分けることは難しかったのかもしれません。あるいは、何も取れなかったということからくる落胆した思いが、弟子たちの目をさえぎっていたのかもしれません。
そこで、キリストは弟子たちに船の右側に網を下ろすようにお命じになり、すぐさまその言葉に従った弟子たちは、おびただしい数の魚を得たことが記されます。その数は正確に153匹だったと記されています。主のご命令に従ったときに、たくさんの収穫を得ることが出来たのです。
さて、事の次第に目を開かれた弟子のひとりが「主だ」と叫び声を挙げます。そして、その声に呼応するように、シモン・ペトロが海へ飛びこんでキリストの立っている岸辺へと泳いで行きます。その距離は200ペキスとありますから、およそ90メートルほどです。
ヨハネ福音書には、弟子たちがどうして主イエスだと気が付いたのか、その理由は何も記されていません。日がだんだんと昇ってきて、人影を見分けられるようになったということもあるでしょう。また、過去にも同じような主の命令に従って大漁を体験していますから、それを思い出したということもあるでしょう。ただ、それ以上に、日常の生活の場で、しかも、失意のうちにあるときに、主を見出した喜びがひしひしと伝わってくるところに、この場面の躍動感があるように思われます。
岸辺に戻ってキリストに再会した弟子たちは、誰一人として復活のイエスに対して「あなたはどなたですか」と尋ねなかったと記されています。それはだれもが、そこに立つお方が主であることを知っていたからだと記されます。自分たちが生活をするその場所で、復活の主イエス・キリストに出会い、主がここにいますことを確信することのできる幸いを思います。
日常のさなかで、失意の中にあるときも、私たちの側に立っていてくださるキリストがいらっしゃいます。復活の主イエス・キリストは遠くに行かれたお方ではありません。わたしたちの傍にまできてくだり、必要な助けをお与えくださるお方です。