2015年11月12日(木) 信じて命を受けるため(ヨハネ20:30-31)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨハネによる福音書の学びも20章のおしまいまでやってきました。あと1章を残すだけとなりましたが、きょう取り上げようとしている個所は、実はヨハネ福音書の結びの言葉とでも言うことができる個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 20章30節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 とても短い箇所ですが、この福音書が書かれた目的が、的確に言い表されています。ここでヨハネ福音書が終わっていれば、いかにも完結したという印象を与えられます。しかし、そのあとにまた別なエピソードを書き加えて、21章にもう一つの結びの言葉を書き記していますので、ヨハネ福音書の構成はとてもユニークだと言うことができると思います。

 さて、言葉を追いながら、ヨハネ福音書の執筆の目的についてご一緒に学んで行きたいと思います。

 30節には、こう書かれています。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」

 イエス・キリストがヨルダン側で洗礼を受けてから、十字架の死と復活に到るまでの期間は、おおよそ3年間であると一般に言われています。3年間という期間はあっという間に過ぎ去ってしまう期間ですが、1日の出来事を1ページの日記にまとめたとしても、毎日書きつづければ、それだけでも、千ページを越える大作になってしまいます。紙をふんだんに使える今の時代でこそ、ページ数を気にせずにいくらでも書きたいことが書けます。しかし、ヨハネ福音書が書かれた当時は、紙はそんなに贅沢には使えませんでした。パピルスではなく羊皮紙を使った巻物に書いていたとするならば、巻物のサイズはだいたい決まっていましたから、書きたいことを何でもかんでもそこに押しこめるということはできませんでした。

 とすれば、この福音書に書きとどめられていることは、許される最大限のサイズの中で、著者が本当に必要だ、本当に伝えたいと感じたことを取捨選択して書きとどめたことばかりです。その書きとどめられている事柄の重さというものをわたしたちは感じ取る必要があると思います。そう思うと、今までざっと読み流してきた事柄も、もう一度真剣に読み直してみようという思いになります。

 現代社会は情報が氾濫しているといわれています。わずか1センチ角ほどのメモリチップの中に、聖書何百冊分もの情報を簡単に書き込むことができる技術のあるこの時代です。けれども、本当に必要な情報は限られていますから、情報の送り手も受け手も、情報を選り分けていく作業が求められています。

 ところで、ヨハネ福音書の場合、すでに情報の送り手の側で十分な絞込みをした上で、イエス・キリストの教えと御業が描き出されています。その場合大切なことは、どういう観点から、あの話を載せてこの話しを載せなかったのかということです。つまり、数ある出来事の中からこれだけのものを選んで書き記したのには、はっきりとした目的があったからだということを知っておく必要があります。幸い、ヨハネによる福音書には、著者自身の手によってそのことがはっきりと記されています。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 二つの目的がここには記されています。「信じる」という目的のため。もう一つは「命を受ける」という目的のためです。

 ヨハネがこの福音書を読む読者に願っていることは、キリストを信じることと命を受けることなのです。そのような結果をもたらすようにと、ヨハネは数あるイエスの教えや御業から、ごくごく限られたものを1冊の書物に書き記したのです。

 さて、第一の目的についてもう少し見てみましょう。何を信じるようにとヨハネはこの福音書を書いたのでしょうか。それはイエスが神の子メシアであると言うことです。これには二つの方向があると思います。一つはイエスは何者なのかという興味に対する答えです。もう一つは神の子メシアとは誰なのかという問いがあると思います。

 イエスという人物については現在でもいろいろな評価が下されるでしょう。博愛主義者、革命家、偉大な宗教家といった具合です。けれども、ヨハネが読者に知って欲しいと願っているイエスは、真の救い主であるメシア、神の子としてのイエスなのです。

 しかしまた、イエスが誰なのかという関心からではなく、まことの救い主はどこにいるのか捜し求めている人たちもいることでしょう。そういう人たちに対して、イエスこそがそのお方であることをヨハネ福音書は描き出しているのです。

 ところで、「信じるため」と記された言葉には、現在二通りの写本の読み方が知られています。一つはイエスがメシアであることをこれから信じるためにというニュアンスで書かれた写本です。もう一種類の写本では、イエスがメシアであることを信じつづけるためにというニュアンスで書かれています。信仰を新たに生み出すために書かれたのか、それともすでに信仰を持っている者たちを励ますために書かれたのか、その違いです。どちらがもともとの読み方なのか、はっきりと結論は出せません。しかし、ヨハネ福音書はどちらの目的にも十分に答えることのできる福音書であることには間違いありません。

 さて、おしまいに、二番目の目的について見てみたいと思います。

 第二の目的は「信じてイエスの名により命を受けるため」ということです。イエスがメシアであると言うことを知るだけなら、それは単なる知識の問題です。けれども、ヨハネ福音書が読者の一人一人に願っていることは、イエス・キリストを信じる信仰を持つことによって、キリストが与える真の命の中に一人一人が生かされるということなのです。わたしたちはヨハネ福音書を通して、キリストのうちにある命の豊かさの中に招かれています。