2015年11月5日(木) 疑いから信仰へ(ヨハネ20:24-29)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「動かぬ証拠」と言う言葉があります。探偵小説や推理ドラマを見ていて、何が動かぬ証拠となって犯人を追い詰めるのか、その辺りが一番興味を掻きたてられるところです。推理ものでは、この動かぬ証拠によって確信を得るわけですが、しかし、信仰を持つというのは、動かぬ証拠というものがあるようでないような気がします。「あるようでない」と言ったのは、信じるということは、いつも物的な証拠、物証によって確信を得ると言うわけではないからです。むしろ心に得た印象が信じる気持ちを大きく左右すると言うことがあるように思います。
例えば、誰かから愛されているということを人はどうやって信じるようになるのでしょうか。その人が自分のためにお金と時間をどれだけ使ってくれたか、それを数値化したからといって、自分が愛されていると言うことを確信したり、疑ったりする人はいないでしょう。たとえ自分に対して少ししか時間を裂いてくれないとしても、その人の愛を信じると言うことが出来ます。逆に、いっぱい時間もお金もかけてくれたとしても、それでも、相手が自分を本当に愛しているか疑ってしまうことだってあります。
相手が人であれ、神であれ、信じると言うことは、もので割り切れるようなそんな単純な事柄ではありません。
さて、きょうお読みする個所には、疑い深い弟子の一人が、信じる気持ちへと変えられていく様子が描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書20章24節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
先週は復活のイエス・キリストに出会った弟子たちのお話を学びました。今週登場する人物は、十二弟子の一人、ディディモと呼ばれるトマスという弟子です。この人について、一番多くを語っているのは、このヨハネ福音書です。ほかの三つの福音書の中では、かろうじて名前が出ている程度ですが、ヨハネ福音書には三つのエピソードが記されています。すでに学んだ11章と14章に、この弟子の話したセリフが出てきます。そのセリフだけを取り出して読むと、ずいぶん悲観的で懐疑的な印象を受けるかもしれません。
「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(ヨハネ14:5)
そして、この20章に登場するトマスは、ほかの弟子たちが復活のキリストに出会ったとき、ただ一人その場に居合わすことができなかった弟子です。他の弟子たちが「復活のキリストに出会った」と言っても、信用しようとはしません。それで、この弟子には「不信仰なトマス」などと不名誉なレッテルが貼られています。仲間の証言を受け容れようとしない不信仰です。
しかし、考えても見れば、死んで葬られた人の姿を見た。いえ、見ただけではなく話もした、という事を聞かされて、「あぁそうですか」とすぐに信じてしまったとしたら、その方がかえってウソ臭い気がしてしまいます。
トマスは復活のイエスの手に釘跡を見、わき腹に槍で貫かれた傷跡を見るまで、いえ、見るだけではなく、自分の手でそれに触れるまで、決して信じないと言い張ります。確かに他の弟子たちもイエスの傷跡を見せられて、紛れもなくイエス・キリストその人であることを確信して喜んだとヨハネ福音書には記されています。けれども、トマスが求めているのはそれ以上の証拠でした。見るだけではなく、手で触れてみて確信を得たいと言うのです。トマスの不信仰さを指摘する人は、この態度、見るというだけでは満足できないトマスの頑なな態度を指摘しています。
もちろんトマスのそうした思いは、疑い深さからだけ出ているのではないかもしれません。他の弟子たちが復活のイエスに出会って喜んでいるのを見て、やっかみも半分あったのかもしれません。
さて、それから8日のち、この場合の8日のちというのは、1週間後の日曜日にという意味でしょう。イエスは再び弟子たちのところへ姿を現します。今度は疑い深いトマスも一緒にいます。キリストはトマスの言葉を繰り返すように、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と勧めます。そして、その言葉に続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言って、トマスを信仰へと招きます。
果たして、トマスが実際にイエスの体に触れてみたのかどうかは、ヨハネ福音書には記されていません。ただ一つ、トマスがそのとき口にした言葉が印象深く記されています。
「わたしの主、わたしの神よ」
このトマスの言葉はとても短い言葉ですが、他のどの弟子たちよりも深い信仰を表しています。イエス・キリストに対して「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけているのです。
第一に、「主であり神であるお方」という確信は、ただイエスの傷跡を見たり触ったりしただけでは出てこない確信です。イエス・キリストが信じるようにと招いてくださったその呼びかけに対して、トマスはイエスの復活が何を意味しているのか、そこまで悟ることが出来たということを、トマスの言葉は物語っています。イエスが神であるという告白の言葉は、新約聖書の中ではわずかな個所にしか出てこない言葉です。トマスはそこまで踏みこんだ告白をしています。
第二に、トマスは「わたしの神、わたしの主」と言って「わたしの」という言葉を繰り返しています。他の誰かにとって神また主なのではなく、わたしにとって神、また主であるとはっきり自覚しています。信仰とはわたしと無関係な神を信じることではありません。わたしの神、わたしの主として信じること、このことが私たちに求められていることなのです。