2015年10月29日(木) 平和があるように(ヨハネ20:19-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日曜日のことをキリスト教会では主の日と呼んでいます。「主の日」という言葉が一週間の最初の日、つまり、日曜日のことを指すようになった最初の証拠は、新約聖書の黙示録1章10節に出てきます。ヨハネがパトモスという島で幻を見たのは「ある主の日」のことであったと記されています。ギリシャ語では「キューリアケー・ヘーメラ」と言いますが、これと非常によく似た言葉に「ヘーメラ・キューリウー」というのがあります。日本語に訳してしまうと「主の日」となってしまうのですが、こちらの方は日曜日のことではなくて、終わりの日、主の再臨の日という意味になります。この「終わりの日」という意味での「主の日」という表現は、すでに旧約聖書の時代から、ヤーウェの日として知られていました。しかし、もう一つの方の「主の日」「キューリアケー・ヘーメラ」の方は、新約時代に生れた言葉です。そして、それは日曜日をさす言葉です。

 では、どうして日曜日のことを教会では「主の日」と呼ぶようになったのかというと、他でもなくこの日がイエス・キリストが復活された日だからです。もっと正確に言えば、この週のはじめの日に、弟子たちは復活の主イエス・キリストにまみえることができた日だからです。ですから、教会ではこの記念すべき日を覚えて、日曜日ごとに礼拝に集まるようになりました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書20章19節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

 先週はマグダラのマリアが復活の主イエス・キリストからの呼びかけで目を開かれ、復活のキリストとまみえることが出来たという記事を学びました。そのことを伝え聞いた弟子たちの様子が、引き続きヨハネ福音書には記されています。

 同じ日曜日の夕方、弟子たちは堅く戸を閉ざして家の中にひきこもっています。マグダラのマリアから伝え聞いた復活の主イエスとの出会いのことも、弟子たちにとってはただのたわごととしてしか聞こえなかったのでしょうか。イエスを十字架につけたユダヤ人たちの手が自分たちに及ぶのを恐れて、家に鍵をかけるほどの念の入れようです。

 と、そこへ復活のイエス・キリストが姿をあらわし、弟子たちに平安を与えられたというのが、今日の箇所のあらすじです。

 きょう学ぶ出来事は、復活の主が、集まっている弟子たちに、その姿をあらわされたという出来事です。初代の教会の人々、特に、ヨハネ福音書の最初の読者たちは、この出来事から多くの慰めと励ましを受けたことでしょう。今日ヨハネ福音書を学ぶ私たちにとっても、大きな慰めと励ましを与える箇所です。

 ヨハネによる福音書の書かれた時代に生きていたクリスチャンたちは、ユダヤ人の会堂から追放され、迫害を恐れていた時代でした。それこそ、キリストの弟子たちのように戸を閉じて家に隠れていたい思いで日々を過ごしていたかもしれません。

 主の日に復活のイエス・キリストが弟子たちの真中に立ってくださり、平安を与えてくださったという出来事が、主の日毎に集まるクリスチャンたちにどれほど大きな励ましを与えつづけてきたことでしょうか。

 主の日と言うのは、ほかでもない復活の主が私たちの中に立って下さるときです。そのときから連綿と主の日毎に礼拝が守られてきたのは、主の日の礼拝の場においてこそ復活の主との出会いがあり、豊かな慰めがあることをクリスチャンたちが経験し、また、期待しているからにほかなりません。

 キリストが弟子たちにかけられた言葉、「あなたがたに平和があるように」という言葉、これはユダヤの普通の挨拶の言葉です。そう言う意味では「やぁ、こんにちは」というのと同じ意味しかないかもしれません。けれども、このヨハネ福音書を注意深く読むと、「平和」という言葉には特別な重みがあります。

 すでに学んだ14章27節でキリストは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と約束されました。そして、その事を約束してくださったのと同じ最後の晩餐の席上で、苦難の中を生きる弟子たちを勇気づけて、キリストはこうもおっしゃいました。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」(16章33節)

 つまり、キリストの願いは弟子たちが神の平和に守られて生きることです。ユダヤでは普通の挨拶の言葉として「平和があなたがたにあるように」「シャローム」と挨拶を交わしましたが、キリストはここで、ユダヤの挨拶がもっている本来の意味のままに、弟子たちに言葉をかけられたのです。

 主の日に、ともに集まる集団の中で、弟子たちは復活のキリストに出会い、キリストの口から平和の言葉をいただきました。怖れや怯えをキリストから取り除いていただいたのです。

 キリストは十字架の傷跡を弟子たちにお示しになった上で、もう一度弟子たちに平和の祝福を与えて、彼らをこの世へと派遣されました。この復活の主からの派遣の言葉は、実は私たちが主の日毎に礼拝の場からこの世へと遣わされる言葉でもあります。

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 主の日の礼拝の集まりの中で、一人一人が復活の主に出会い、復活の主から神の平和をいただき、そして、復活の主から再びこの世へと遣わされていきたいと願います。