2015年10月22日(木) 復活の主の呼びかけ(ヨハネ20:11-18)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ロボットの研究に欠かせないことのひとつに、人間の能力をいかに上手に真似させるかと言うことがあるそうです。例えば、音に対して反応するということは、センサーを使えば簡単に実現できます。しかし、たくさんの音の中から、意味のある語り掛けを聞き分けて、正しく応答するということになると、ロボットにはなかなか難しいようです。相手の声を聞き分けて応答するということ、これは人間に与えられた、素晴らしい能力だと思います。
さて、きょうは復活の主イエス・キリストから呼びかけられたマグダラのマリアのお話を聖書から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 20章11節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
先週はイエスの遺体を収めたお墓が空っぽであったと言う福音書の記事を学びました。お墓が空っぽであったと言うだけでは、まだ事柄の半分も伝えてはいません。それはキリストが復活したのかもしれないし、あるいは、きょう登場するマグダラのマリア自身が思っているように、誰かがキリストの遺体を持ち去ったのかもしれません。
キリストの復活を伝える記事の中でもっとも重要なのは、復活のキリストに出会ったと言う人々の証言です。初代キリスト教会最大の伝道者であり指導者であったパウロと言う人は、コリントの信徒への手紙の中で、キリストの復活を最も大切なこととして取上げています。そのとき、パウロが言及しているのは、キリストのお墓が空っぽだったと言う事実ではなく、何人もの弟子たちに姿を現し、500人以上の兄弟たちがその姿を目撃し、ついには自分も復活の主に出会ったと言うことでした(1コリント15:5-8)。
復活を伝える福音書の記事の中で、復活の主が実際にその姿を現したということを伝えているのは、マルコ福音書以外の三つの福音書すべてです。そしてそのうちの、マタイ福音書とヨハネ福音書では、まず、婦人たちに対して主はよみがえりの姿を現したことが記されています。当時、婦人の証言は裁判では重んじられなかったと言う事実を考えると、主イエスが敢えて婦人たちにその復活の姿を示されて、復活の主の目撃証人とされたことに感慨深いものを感じます。
さて、きょう取上げたヨハネ福音書に登場する復活のキリストの最初の目撃者は、先週も登場したマグダラのマリアという女性です。このマグダラのマリアという人物について、新約聖書はほとんど詳しいことを書き残していません。ただ、ルカによる福音書の8章2節に「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と書かれているだけです。このルカによる福音書の記事は、福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けたイエス・キリストと行動を共にした婦人たちのリストです。
けれども、四つの福音書が共通して、このマグダラのマリアについて語っていることは、この女性が空になったキリストの墓の目撃者であったということ、さらにそのうちの二つの福音書には甦ったイエス・キリストを最初に目撃した人物の一人が、このマグダラのマリアであったということです。
さて、きょうの福音書の記事の特色は何かと一言で言えば、それは、復活のキリストとの出会いを境に、このマグダラのマリアが、悲しみから喜びに変えられていく姿、曇っていた目が明らかにされる姿です。では、どのように変わって行ったのか、その様子を聖書から見てみることにしましょう。
キリストを収めた墓から誰かが遺体を持ち去ってしまったと思いこんでいるマリアは、墓の前で泣きつづけています。空の墓を見て、すぐに家に帰っていってしまったペトロやもう一人の弟子とは対照的な姿です。マリアが主イエス・キリストをどれほど慕っていたのか、という事を思わせます。
しかし、この地上にいらっしゃったキリストに対する愛着の気持ちが、マリアの心の目をさえぎって、復活のキリストの姿を見えなくしてしまいます。マリアが捜し求めていたのは、よみがえられた主の姿ではなく、死んでしまったキリストの体だったのです。実際に復活の主がマリアの前に立っても、気がつかないほどです。それは、涙で目がはっきり見えなかったとか、復活の主の姿がすっかり変わってしまったからと言う理由ばかりではないでしょう。マリアの閉ざされた心こそ、復活のキリストを覆い隠していたのです。
面白いことに、この記事の中で、マリアは二度振り返っています。最初は、墓の中に居た天使たちから語りかけられたとき、何気なく後ろを振り返って、そこに復活のキリストを見ます。しかし、園丁だと思い込んで、再び墓の中にキリストの遺体を探しているマリアです。後ろから語りかけるキリストの声に振り返りもしないで返事をします。
そのマリアの目を開かせたもの、それは、キリストご自身の呼びかけでした。イエス・キリストが悲嘆にくれるマリアに、「マリア」と呼びかけられたとき、われに返ったようにマリアは振り向いて「ラボニ」(先生)と応えます。ただ、物理的に復活したキリストの姿を見たと言うだけでは、人間は復活のキリストに対して正しく応答できません。
主の呼びかけに対して、人は初めて復活の主に対して応答することが出来るのです。それは、かつて主イエス・キリストが、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。…羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3-4)とおっしゃられた通りです。
復活の主は今も私たちの名前を呼んでくださいます。その声に応えて、主の後に従って行きましょう。