2015年10月8日(木) 主の葬り(ヨハネ19:38-42)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストはこんなことをおっしゃいました。
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マルコ4:22)
確かに神の国の福音は秘められたものでしたが、今や公然と宣べ伝えられています。そして、この福音を信じる者たちの信仰も同様です。それを内側に秘めておくことはできません。
きょう取り上げる個所には、思わぬ形で自分の信仰を言い表した二人の人物が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章38節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」
十字架から取りおろされたキリストの葬りについては、四つの福音書の中に記されています。その日の日没から安息日が始るという特殊な事情から、大急ぎの葬りとなりました。他の福音書によれば、主イエスが十字架で息を引き取られたのは午後の3時ごろでしたから、日没まで数時間しかない、大急ぎの葬りでした。ルカによる福音書を読むと、とりあえずお墓に遺体を収めただけで、十分な葬りは週が明けてからという印象を強く持ちます。
さて、四つの福音書が記すキリストの葬りの記事ですが、ヨハネ福音書は、ヨハネ福音書の関心から出来事を記しています。今日はそのことを中心に学びたいと思います。
ヨハネによる福音書は、イエス・キリストの埋葬に関わった人物として、二人の名前を挙げています。一人はアリマタヤのヨセフという人物です。アリマタヤという地名が、正確にどこを指しているのかは不明ですが、ルカによる福音書によれば、「ユダヤ人の町アリマタヤ」と呼ばれてます。旧約聖書サムエル記に登場するサムエルの故郷ラマは、ギリシア語七十人訳聖書では「アルマタイム」(1サムエル1:1, 19)と記されていることから、このアルマタイムがアリマタヤと関係があるのではないかと言われています。
このアリマタヤのヨセフという人物は、他の三つの福音書にも、イエス・キリストの埋葬のところにだけ名前が記されている人です。他の三つの福音書がこの人を紹介するときの言葉は、とても評価の高い人物として紹介されます。「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人」(マタイ27:57)、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」(マルコ15:43)、「ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。」(ルカ23:50-51)
ところが、ヨハネによる福音書はこの人物をこんな言葉で紹介しています。
「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」
ずいぶん辛口の評価です。イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れてクリスチャンであることを隠していた人物だと言われます。他の福音書から比べると、まるで正反対の人物評です。
こんな悪評をわざわざ記したのは、ヨハネ福音書がアリマタヤのヨセフに悪意を持っていたからではありません。これは、私の想像ですが、むしろ、親しい関係にあったからこそ、アリマタヤのヨセフは自分の本当の姿がヨハネ福音書に記されることに少しのためらいもなかったのだと思います。
しかし、他の弟子たちが姿をあらわさないこの場面に、このアリマタヤのヨセフが登場すると言うことの中に、不思議な思いがいたします。人間的な弱さから言えば、そのままイエスの弟子であることを隠しておいた方が、簡単だったことでしょう。実際、イエスの弟子であることを誇りに思っていた他の弟子たちは、とっくに姿を消しているのですから。
思うに、信仰とは隠し通すことができないものです。アリマタヤのヨセフにとっては、イエスを葬るときに、イエスへの信仰をもはや内面にとどめておくことができなくなったのでしょう。
さて、イエスの葬りには、もう一人の人物が関わっていました。こちらの人物は、ヨハネ福音書にだけ登場する名前です。その人物が、埋葬に必要な没薬や沈香をすべて提供しました。
それにもかかわらず、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と記されます。わざわざ「かつてある夜に」と断り書きがなされています。これは、明らかにヨハネ福音書の3章の出来事を思い起こさせる文章です。夜にイエスのもとへやって来たのは、人目を避けてのことでしょう。そう言う意味では、アリマタヤのヨセフと同じように、ユダヤ人たちを恐れて、キリストの弟子であることを隠していた人物なのかもしれません。
もっとも、ヨハネ福音書にはもう一箇所、このニコデモについての記事が出ています。7章50節で、ニコデモはイエスに対して十分な取調べがなされないなら、安易な判決を下すべきではないと言う慎重な意見を述べています。聖書の中に3回しか登場するチャンスのないニコデモですが、それでも、彼の内面の変化ははっきりと記されます。初めは人目をはばかって夜イエスのもとへやって来たニコデモ。次にはイエスを訴え出るにはあまりにも不充分な証拠だと慎重な態度をとるニコデモ。そして、ついに、イエスが葬られる場面になって、他の弟子たち以上に心を尽くすニコデモ。
ヨハネによる福音書はそれ以上何も記してはいませんが、このニコデモにしろ、アリマタヤのヨセフにしろ、社会的には有力人物であったかもしれませんが、キリストの弟子としては、この葬りのことがあるまでは殆ど知られていない人物でした。けれども、こういう形を通して、この二人を人々の前に引き出し、キリストへの信仰を明らかにされる神の導きを、深く覚えたいと思います。