2015年10月1日(木) 完全に死んだ救い主(ヨハネ19:31-37)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
救い主の死という出来事は、誰が考えても矛盾した出来事でした。まして、その死は、十字架刑によってもたらされた死でした。そこに救いの希望など、少しもないように思われます。確かにキリストの死をもって福音書の記述が終わっているとすれば、そこに希望を見出すのは困難です。
しかし、キリストの死を軽くやり過ごして、キリスト教の救いを語ることはできません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章31節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。。
「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。。
先週わたしたちが学んだのは、十字架の上で「成し遂げられた」と言う言葉を最後に頭をたれて息絶えたイエス・キリストの姿でした。「成し遂げられた」という言葉は、ただ単にイエスの活動が終わりを迎えたということを告げるものではありません。終わりではなく、救いの完成がキリストの十字架を通して成し遂げられたということです。
けれども、ヨハネ福音書は、十字架の上で息を引きとられたイエス・キリストの姿を描いて終わるだけではありません。その死の様を克明に描きつづけています。イエス・キリストの死という現実を決して軽く扱ってはいません。十字架からいきなり復活へと話が進むのではなく、そこには、動かしがたい事実として、救い主の死が横たわっています。
古代教会の時代から代々唱えつづけられてきた使徒信条という信仰告白の文章の中に、「(御子主イエス・キリストは)ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉が出てきます。十字架にかけられ、一気に甦られたのではなく、「死んで葬られた」という事実がその間には横たわっています。死が持っている重みを、代々の教会はしっかりと受けとめていたのです。この救い主の死ということをしっかり受けとめてこそ、復活の意味もまた重みを持って受けとめられるものと確信いたします。そうでなければ、復活の恵みが中に浮いてしまうことになるでしょう。
さて、キリストの十字架刑が執行されたのは、金曜日のことでした。ユダヤ人たちは金曜日の日没から安息日に入りますので、遺体を十字架の上に放置しておくということを好みませんでした。特にキリストが十字架にかけられたのは、過越のお祭りのときでしたから、宗教的に特別な意味をもった時期の安息日をよけいな事で汚されたくないという思いがあったのでしょう。十字架で処刑された人たちの遺体を十字架から取りおろすことをユダヤ人たちは願いでました。ただ、死を早める目的か、あるいは、万が一息を吹き返した場合に備えてか、足の骨を折ってから取りおろすことを願いました。イエスの他に二人の犯罪人も十字架にかけられていましたので、まず、彼ら二人の足の骨が折られ、続いてイエスの足の骨を折ろうとしたとき、イエスはもうすっかり息を引き取っておられたので、足の骨を折らないで、兵士が槍でわき腹を突き刺したとヨハネ福音書は報告しています。
わき腹を槍で貫かれたイエスの遺体からはすぐに血と水とが流れ出たと目撃者の証言を添えています。この、血と水とが流れ出た、という出来事を記したのは、ヨハネ福音書だけです。ヨハネによる福音書と他の福音書を読み比べてみる時に、ヨハネ福音書が描く十字架は、苦しみという観点よりも、栄光の輝きという観点が先行しています。ですから、マタイやマルコの福音書のように「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びの声は記されません。その代わり、ヨハネ福音書が描くキリストの死は、他の福音書に勝って、なまなましい死の様子が描かれます。槍で刺し抜かれた遺体から血と水とが流れ出るとは、本当にリアルな描写です。キリストの死とは動かしがたい現実であったということを目の前に描き出しています。
もちろん、ヨハネがこんなことをわざわざ描いたのには、理由がありました。ヨハネの手紙一の4章2節に「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」という言葉が記されています。つまり、逆にいえば、キリストが肉となって来られたという事を否定する人たちがいたということなのでしょう。そういうことを吹聴する人たちは神から出ていない、惑わす霊によっているのだと言うことなのです。そして、そういう人たちは、十字架の死のリアルさと言うものを少しも受け入れようとしない人たちであったとおもわれます。
イエス・キリストの完全な死がなければ、わたしたちの救いはほんとうの意味で完成していないというのが、キリスト教の信仰なのです。なぜなら、それは罪を犯した人間の罪の罰を背負った身代わりの死だったからです。
さて、ヨハネ福音書は、キリストの完全な死の様を描く時、この出来事が聖書に啓示された神のご意志に基づくものである事を二つの聖書の個所を引用して、その事を示します。
一つは、「その骨は一つも砕かれない」という旧約聖書民数記9章12節の規定が引用されます。これは過越の犠牲である小羊に関する規定ですが、ヨハネ福音書は、十字架から取りおろされるイエス・キリストにこれを当てはめて、キリストこそ世の罪を取り除く神の小羊であることを描いています。
もう一つの引用は、旧約聖書ゼカリヤ書12章10節です。イスラエルが自分たちの手で刺し貫いた者の姿を見て嘆き悲しむという預言の言葉です。けれども、この預言の言葉には続きがあって、罪と汚れとを洗い清めるという神のご計画が宣言されます。
「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ13:1-2)
この刺し貫かれた者を、嘆きつつ、信仰をもって仰ぎ見る時、この神の小羊の血によって、罪の汚れからまったく清められるのです。
十字架の上で貴い血潮を流してくださったキリスト、わたしたちのために確かに死んでくださったキリストを仰ぎ見て、救いの恵みをいただきましょう。