2015年9月24日(木) 救いは成った(ヨハネ19:28-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新約聖書にある四つの福音書の中には、主イエス・キリストが十字架の上でお語りになった言葉がそれぞれに記されています。その言葉は全部で七つ知られていますが、それらをまとめて「十字架上の七つの言葉」と呼んでいます。その七つの内の三つはヨハネ福音書だけが書き記している言葉です。その一つは先週お読みした個所に出てきました。母マリアと愛弟子に語りかけた言葉がその一つです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。」
 後の二つは、きょうお読みする個所に出てきますが、とても短い言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章28〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 主イエス・キリストが十字架の上で発せられた七つの言葉のうち、三つがヨハネ福音書の中に、そして、そのうちの二つがきょうお読みした個所に出てきました。

 まず最初に出てきたのが「渇く」と言う言葉でした。イエス・キリストがこの言葉を口にしたのは、「すべてのことが今や成し遂げられた」と知ってのことでした。十字架での処刑の場面を見ていた見物人たちにとっては、この言葉は苦しみに喘ぐ死刑囚の声としてしか響かなかったことでしょう。それは、こうした場面ではよく聞かれる言葉だったからです。人々はすっぱいぶどう酒を浸した海面をイエスの口元へ持っていったとあります。ラテン語でポスカと呼ばれる酸いぶどう酒を水に混ぜたものが使われていました。こうして、死刑囚の渇きを癒すのは、普段通りの光景です。

 しかし、ヨハネ福音書は、このイエスが「渇く」と叫ばれたのが、ただの渇きや苦しみから出た言葉ではないということを一番最初に語ります。

 「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り『渇く』と言われた。」と記されている通りです。

 これと大変よく似た言葉が、弟子たちと共にした最後の食事に臨まれるイエス・キリストを描くヨハネ福音書の言葉に出てきます。ヨハネ福音書の13章1節です。

 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 ヨハネ福音書は最後の晩餐の出来事から今に至るまで、世を去って父なる神のみもとに予定通りに帰られる御子イエス・キリストの姿を描いています。定められた時が到来し、神のご計画にしたがって、定められた救いの御業を成し遂げていくキリストの姿です。

 そして、「渇く」というイエスの言葉を記した後で、ヨハネ福音書は「こうして聖書の言葉が実現した」と語ります。

 ヨハネ福音書が描く十字架の場面には、至るところでこの出来事が神のご計画に沿ったものであり、聖書の預言の言葉にのっとったものであることが強調されています。

 誰もが十字架の中に破局しか見出せない中で、聖書の言葉は、それが救いの御業の完成である事を告げています。

 十字架の上で救い主キリストが渇きを覚えることを預言した聖書の個所は、詩編の69編22節や22編16節などを挙げることが出きるでしょう。そこにはこう記されています。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」

 「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く」

 こうした聖書の御言葉は確かにキリストが「渇く」とおっしゃったことを預言しているように思えます。けれども、ヨハネ福音書が語りたかったことは、ただ、十字架の出来事が、旧約聖書のあの言葉、この言葉の成就であるということではありません。むしろ、十字架を通してなされる神の救いの御業が、聖書全体にあかしされた神の約束通りに成し遂げられたという点にあります。

 ところで、イエス・キリストが十字架の上で発せられた、「渇く」という言葉は、イエス・キリストが人々に教えていたことと考え合わせるときに、不思議な感じがいたします。キリストはこうおっしゃいました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)「わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)

 そうおっしゃったお方が、今、「渇く」と叫んでいらっしゃいます。

 この渇ききった姿こそ、本当は魂の乾ききったわたしたちの姿です。このお方がわたしたちに代わって十字架の上で苦しんでくださったところに、永遠の命に到る水が涌き出ているのだと言う事を覚えさせられます。

 さて、ヨハネ福音書が記している十字架の上でのイエス・キリストの最後の言葉は、「成し遂げられた」という言葉です。この言葉は、「満たされた」、「成就した」、「完成した」という意味の言葉です。ただ単に事が終わったという意味ではありません。見物の人々は息絶え果てたキリストの姿を見て、すべてが終わったと感じたでしょう。キリストを十字架につけるように扇動した祭司長をはじめとするユダヤ人の指導者たちは、これで自分たちの計画はすべて終わったとホッとしたかもしれません。

 けれども、この十字架の上でキリストが死を成し遂げられたと言うことは、人間の計画が完了したのではなく、神のご計画こそが成し遂げられたのです。

 ヨハネ福音書の最初の方で、洗礼者ヨハネはイエスを紹介して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と叫びました。昔イスラエル民族はエジプトで奴隷の生活をしていたとき、神の力強いみ手によってエジプトを脱出することができました。そのとき、イスラエル人を特別に区別する印として、犠牲の小羊の血が用いられました。

 そのように今、十字架の上のキリストは、罪の奴隷から私たちを解放する神の小羊として、救いのみ業を成し遂げてくださっています。

 また、イエス・キリストご自身が「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」とおっしゃいました(10:18)。その言葉の通り、救いのために自分から命を捨てるみ業を成し遂げてくださったのです。

 「成し遂げられた」という十字架の上での言葉に、わたしたちのために救いのみ業を成し遂げてくださった神の恵みの声が聞こえてきます。