2015年9月17日(木) 十字架のもとで(ヨハネ19:23-27)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人々の悲しみのすぐ隣りに人々の戯れ事がある。これは、何とも不謹慎な光景のように感じられます。悲しんでいる人がいる一方で、くだらない事柄に興じている人々がいる。しかも、すぐ隣り合わせにそんな人たちがいる。これは、悲しみの中にいる人たちにとってはとても堪えられないことです。
けれども、現実の世界では、こんなことは日常茶飯事です。誰かが深い悲しみの中にあっても、周りの世界はそれによって時間が止まったり、暗くなったりしたりはしません。今まで通り時は流れ、あいも変わらず笑いに興じる人たちがいる。これが現実です。
主イエス・キリストが十字架におかかりになったときもそうでした。今日お読みしようとしている場面は、まさにこの悲しみに打ちひしがれる人々と、まったく無頓着に遊びに興じる人々が対照的に描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章23〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
以前、いろいろな本で十字架刑について調べたことがあります。古代の人々は、こぞって、この死刑の方法が、どんな刑罰よりも残酷で、最も苦しみに満ちたものであることを証言しています。ローマで最も有名な弁論家であるキケロという人は、十字架刑を指して「もっとも残酷で恐ろしい死に方」と表現しています。
死刑囚たちのうめき、苦しみは、場合によっては長時間にわたるものであると言われています。ローマのストア派の哲学者セネカという人は、十字架刑は「しずくが滴り落ちるように息絶える」と語っています。主イエス・キリストが十字架にかけられてから息絶えるまで、数時間の出来事でしたから、十字架で処刑された他の人々と比べれば短かったかもしれません。それでも、イエス・キリストが味わった十字架の苦しみは、決して軽いとは言えません。
さて、そんな苦しみと隣り合わせのところに、イエスが着ていた服の分け前に与ろうと、賭け事に興じていた人々がいました。死刑囚が着ていた服の分け前に与るのは、死刑執行人の役得だったと言われています。彼らはイエスの外套を四つに引き裂き、それぞれ各自に一枚ずつ行き渡るようにしました。さらに、下着を見ると、それは縫い目のない一枚織りの布だったので、くじで分けることを思いつきました。こういう光景は、十字架刑の執行人にとっては日常的なことだったので、感覚が麻痺していたのかもしれません。
しかし、ヨハネ福音書は、こうした人間の愚かしい行動の中にも、神のご計画の不思議さと意義を見出そうとしています。
一つは、このことが起こったのは、旧約聖書の預言が実現したのだということをヨハネ福音書は指摘しています。詩編22編の言葉を引用して、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」とその出来事を描いています。ヨハネ福音書に何度も何度も繰り返して出てくるテーマは、イエスの十字架が、ただ単に決して人間の思いから出てきているのではないということです。服をくじ引きで分けたと言うエピソードは、こんな細かいことまで神によってすべてが計画されていた、ということを示すためではありません。そうではなく、キリストの十字架の中に、神の深いご計画があると言うことをあらゆる出来事を観察することによって、福音書の読者に指し示そうとしているのです。
ところで、この服をくじ引きでわける兵士のエピソードには、さらに、ヨハネ福音書だけが特別に記していることがあります。それは、イエスの下着が一枚の織物であったという点です。一枚織りの長い衣を着ていたのは、神殿で仕える祭司でしたから、ヨハネ福音書はそこに、イエスはただ王としてばかりではなく、祭司としての役割をも担うお方としての姿も見ていたのかもしれません。
十字架という刑罰は、誰が見てもむごたらしい刑罰です。そして、そこに居合わせる兵士たちの姿は、こんな苦しみに無関心としか思えないような人々です。こういう場面は、決して人々に希望を与える光景ではありません。けれども、そこに神の深いご計画と意義とを読み取ることの出来る人にとっては、命の道を見出すことができる出来事なのです。
さて、ヨハネ福音書は、一方ではイエスの着ていた服を分け合うローマの兵士たちを描きましたが、もう一方ではイエスに従ってきた一団の人々の姿を描いています。イエスの母マリアと数名の婦人たち、それから、イエスに愛された一人の弟子の姿です。この記事もヨハネ福音書独自の記事です。
イエスは、自分の母マリアとそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」とおっしゃいました。それから愛する弟子に対して「見なさい。あなたの母です。」とおっしゃいました。こうして、イエスに愛された弟子が後にイエスの母マリアを自分の家に引き取ったというエピソードを紹介します。
昔から、この出来事の中に特別な意味を見出そうとする試みがありました。この出来事の内に象徴的な意義を見出そうとする試みです。例えば母マリアをユダヤ人クリスチャンの象徴と見たり、イエスに愛された弟子を異邦人クリスチャンの象徴と見たりする読み方です。
しかし、むしろここでは、十字架を前に無邪気にもイエスの着ていた衣をくじで分け合う人々、神の御心をまったく知らない人々と、イエスにしたがって十字架のもとに集う人々との対比があります、それこそが、私たちの目を引く光景ではないかと思います。十字架刑という絶望的な出来事の中にあっても、イエス・キリストを慕う者たちがおり、イエス・キリストはこの者たちを心にとめてくださっているのです。ヨハネ福音書が描くキリストの十字架の場面は、決して惨たらしい残虐な光景ばかりではありません。本当はまぎれもなく残虐な場面であるはずの十字架刑の中に、それを超える穏やかな希望をヨハネは巧みに描いています。なぜなら、キリストの十字架を通して、神の愛がもっともはっきりと実現するからです。ヨハネ福音書の著者自身が、その愛を身をもって体験しているからです。