2015年9月3日(木) 欺瞞(ヨハネ19:12-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストが逮捕されてから判決が下るまでの様子を、今まで何回かに分けてヨハネ福音書から学んできました。そもそもユダヤ人の指導者たちが、イエスを捕らえようと計画を立てたのは、イエスの人気が高まるに連れて、大勢の人々がイエスのもとへと集まるようになったからです。やがてはそれが支配者であるローマ人たちの目に止まるようになって、ユダヤ人全体が取り締まりの対象となることを恐れたからでした。ヨハネ福音書11章47節以下には、イエスの活動に関して開かれた、そのときのユダヤ最高法院のやり取りが描かれています。そして、彼らがくだした決定は一人の人間イエスを始末することで、ユダヤの国益が守られるなら、イエスを殺そうではないか、というものでした。

 その最高法院の決定が実行に移された様子を今まさにわたしたちは学んでいます。きょうは、そのユダヤ人指導者たちの企みが効を奏して、いよいよ判決が下される場面です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 19章12〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。

 イエス・キリストの裁判の様子を見ていて思うことは、人間とは自分の身の安全を図るためによくそこまで平気でウソがつけるものだと言うことです。

 先ほども触れましたが、ヨハネによる福音書は、この裁判のきっかけが、ローマ人のさらなる侵略から自分たちの身を守るためという、ユダヤ人指導者たちの動機に支えられたものであることをあらかじめ指摘していました。その当時のユダヤはもともと独立国家ではないとはいえ、ローマ帝国からある程度の自治権を獲得していました。ですからユダヤ人の支配者層にとっては、その自治権を守るという使命感があったことでしょう。それはそれとして理解できる事柄です。あるいは、もうちょっと意地悪な見方をすれば、ユダヤ人指導者が気にしていたのは、ユダヤ国民全体の利益よりも、自分たちに委ねられた支配の特権であったのかもしれません。

 いずれにしても、このイエスの裁判には、人間的な思いが色濃く影を落としています。人間的な利益を図るためにウソを重ねて行く、人間のドロドロとした罪深さが描かれています。

 イエスを赦そうと努めるピラトと、あくまでも、自分たちの陰謀をピラトを通して実行しようとしているユダヤ人たちとの間に、息も詰まるようなやり取りが繰り広げられます。

 ユダヤ人たちはイエスを赦そうとするピラトに対してこう叫びます。

 「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 確かに、この言葉はローマから総督として遣わされているピラトにとっては、身に堪える言葉だったに違いありません。ユダヤ人たちはすでにイエスを指して「律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と指摘してピラトにイエスを処刑するように迫りました。今度は、もっとピラトの身に堪えるものだったのです。なぜなら、イエスが神の子を自称しているかどうかは、ユダヤ人たちの宗教的な問題ですから、ピラトとしても、それを無視してしまうことも出来たはずです。けれども、ユダヤ人たちは、すかさず、ピラトの弱みとなる点をついて来たのです。

 なるほど、イエスを赦してしまったら、ローマ皇帝以外の王を認めることになってしまいます。それはピラトにとっては致命的な失敗になってしまいます。

 「あなたは皇帝の友ではない」という指摘は、ピラトにとって、あまりにも恐ろしい響きをもって聞こえたに違いありません。ただ、ここで感じることは、そのことを指摘したユダヤ人の指導者たち自身が、ローマ皇帝に対して、どんな思いを持っていたのかという、彼らの内面の問題です。ローマ皇帝を尊敬するローマ皇帝の友として、同じくローマ皇帝の友であるピラトに対して、忠告をしたというのでは決してなかったはずです。彼らこそ、ローマ皇帝を友とも思ってもいないし、尊敬の念などかけらも持っていない人たちです。にもかかわらず、自分たちの内面を隠したまま、ピラトの弱みに付け込もうとする、このやり方は、本当に人間の恐ろしい面を感じさせます。

 いよいよ、正式の裁判が始ってからは、人の声ばかりが鳴り響き、主イエス・キリストの声は一言も記されません。人間だけが主役になりきり、人間だけが悪の道を暴走し始めたかのようです。

 けれども、ヨハネによる福音書は、この裁判が始ったのは「過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と記して、この出来事の象徴的な意味を語ろうとしています。イエスの裁判や十字架刑が実際にいつ行なわれたのかと言うことを特定することは難しいと言われています。何故なら、それは福音書同士、微妙な食い違いがあるからです。ただ、はっきりしていることは、ヨハネ福音書では、イエス・キリストが十字架につけられたのは、神の小羊、過越の犠牲としてであったということです。かつてイスラエル民族がモーセに率いられてエジプトを脱出するときに、過越の小羊の血がイスラエル民族を不思議な方法で救ったのと同じように、イエスは救いをもたらす過越の小羊のように十字架の上で血を流そうとされていらっしゃるのです。人間的な悪巧みが描かれる中で、この事柄が救いの計画と深い関係を持つ事件であることをヨハネはさりげなく、しかしはっきりと記しているのです。

 そういう、神の救いのご計画との対比の中で、この裁判記事を読むときに、ますます、人間の罪の黒さが際立ってきます。彼らが十字架刑を要求して、最後にピラトに投げつけた言葉は「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」という言葉でした。もしこの言葉が本心であれば、彼らは神の民イスラエルの身分を自分から放棄してしまったことになるでしょう。しかし、それが口から出たウソであるとすれば、人殺しを正当化するために、そこまで自分たちの身を貶めてしまったと言うことになります。こうした罪の欺瞞さこそ、イエスを十字架に付けてしまった最大の原因なのです。しかし、このことは決して他人ごとではありません。それはあらゆる人間に共通した罪深さにほかなりません。その罪から人を救うために、キリストは自分から進んで十字架におかかりになったのです。