2015年7月16日(木)苦難に向かうイエス(ヨハネ18:1-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうから、ヨハネ福音書も新しい個所に入ります。今まで学んできたのは、最後の晩餐の席でのことでした。それは外の世界からは遮断された、イエス・キリストと弟子たちだけの世界でした。部屋の中という物理的な意味でも外から遮断されていましたが、裏切り者のユダが出て行った闇の世界からは隔絶された世界という意味でも、最後の晩餐の部屋は光に包まれた空間を醸し出していました。
これから学ぼうとする個所は、再び外の世界へと向かう主イエス・キリストの姿を描いた個所です。弟子のユダによる裏切り、逮捕、裁判、そして十字架による処刑へと一気に話が展開して行きます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 18章1〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
主イエス・キリストは、長い祈りを捧げた後、エルサレムの中で行なわれた最後の食事の席から立ちあがって、弟子たちと共にいつもの園へと向かわれました。ヨハネによる福音書には、その園の名前が記されてはいませんが、他の福音書ではその場所がアラム語で「ゲツセマネ」(オリーブオイル搾り)と呼ばれていたと記されています。キドロンの谷を挟んでエルサレムの東側、オリーブ山の西の麓にある園でした。ヨハネ福音書にはその園の名前こそ記されませんが、しかし、もっと重要な事柄が記されています。それは、この園については、裏切り者のユダもその場所を知っていたということです。それは、イエス・キリストが、この場所に弟子たちと共に何度も来られたことがあるからです。ルカによる福音書では、この場面を「いつものように…いつもの場所に」行かれるキリストの行動として描いています(22:39)。ですから、どこへ行けばイエス・キリストに会うことができるのか、ユダが知っていたのも当然です。
つまり、この福音書が描こうとしている主イエス・キリストの姿は、偶然にこの場所にやって来てしまったというキリストの姿ではありません。むしろ、裏切り者のユダが知っている場所へわざわざ来られたわけですから、意図的にこの園へいらっしゃったということなのです。つまり、これから先、展開されようとしている事件は、決して偶然の出来事でもなければ、闇の世界が計画した出来事でもありません。主イエス・キリストがこの場所へ向かわれた時点で、すでに、出来事の主導権はイエスを逮捕しようとしている人々の手にあるのではなく、キリストご自身の内にあるということです。
実は、この事に関して、キリストはずっと昔に弟子たちにお語りになっていました。良い羊飼いについてお語りになったとき、キリストはご自分の命を捨てる事について、こうおっしゃっています。
「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」
これは10章18節に記されたキリストの言葉です。
その言葉の通り、これから展開されようとしている事件は、キリストご自身の主導権のなかで出来事が展開されています。ヨハネ福音書はキリストが逮捕される場面をそうした観点から描いていますので、逮捕を恐れない敢然としたキリストの姿を印象深く描写しています。
しかし、またヨハネ福音書は、イエス・キリストを逮捕しようとしてやってきた人々の並々ならない用意周到深さも同時に描いています。たかだか一人の人物を捕らえるために一隊の兵卒を遣わしたとあります。この兵卒とはエルサレムに駐屯していたローマ兵の一隊です。その数は通常600人、少なく見積もっても200人といわれています。過剰過ぎるくらいの人数です。
その手には松明やともし火を持っていたと記されています。その日は過越の祭りの時期ですから、満月の夜でした。普通なら明かりは必要ないくらいの明るさだったはずです。月が雲でさえぎられるのを恐れてか、あるいは園に生えているオリーブの木陰で人影を見失わないようにするためか、十分な装備です。
その上に武器まで携行していたのですから、これは見方によっては、滑稽と思えるくらいの姿です。ヨハネ福音書は、神のみ心を敢然と歩まれるイエス・キリストの姿と、そうとは気がつかないで用意周到に事に当ろうとする人間の愚かさを対比しながら描いているように見えます。
事件は全てがイエス・キリストの側で進められて行きます。逮捕にやって来た者たちが第一声を発するのではなく、キリストの方から声をかけられます。「誰を探しているのか」。
「ナザレのイエスだ」という逮捕者たちの声にも少しも動じることなく「わたしである」とキリストはお答えになっています。
これから起ころうしている一連の出来事が、すべて主イエス・キリストの手の中に置かれていることをヨハネ福音書は余すところなく語っています。剣を振りかざしてキリストを守ろうとするペトロに対してさえ、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と諭されます。
自発的に進んで命を捧げてくださるこのイエス・キリストのうちにこそわたしたちの救いはかかっています。