2015年7月9日(木)世々の教会のために(ヨハネ17:20-26)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストが祈りの人であるということを一番よく描いているのは、ルカによる福音書であるといわれています。ルカ福音書には、とにかく何度も何度も、繰り返し祈るイエス・キリストの姿が描かれています。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるときにも、十二人の弟子たちをお選びになるときも、そして、最後に十字架の上で地上での生涯を閉じられるときにも、祈っているイエス・キリストの姿をルカによる福音書は描いています。
ところが、キリストが実際にどんな祈りの言葉で祈っていたのかということは、どの福音書の中にも、ほとんど記されることはありません。一番まとまった言葉で、一番長く記されているのが、今わたしたちが学んでいるヨハネによる福音書の17章です。すでに二回、この個所から学んできましたが、きょうは最後の段落を学んでみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 17章20節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
ヨハネ福音書17章に記されたイエス・キリストのお祈りは、三つの段落から構成されています。先ほどお読みしたのは、最後の段落です。ここには、将来を見据えて、教会のために祈るキリストの姿が描かれています。その直前の段落には、今いる弟子たちのための祈りが捧げられていましたが、ここでは、その弟子たちの言葉を通してキリストを信じる者となった人々のために、祈りが捧げられています。弟子たちの言葉を通して将来起されてくる人々のことですから、まだ、影も形もない人々のための祈りです。もちろん、その中にはすでに生まれている人もいたでしょう。どちらにしても、弟子たちにとっては、まだイメージすることのできない人たちのための祈りでした。
この祈りを聞いていた、あの最後の晩餐の席を共にした弟子たちは、どんな思いでこの祈りを聞いていたのだろうかと思います。主イエス・キリストから与えられたチャレンジとして祈りの言葉を受けとめたというよりは、よく分からなかったというのが彼らの正直な気持ちではなかったかと思います。
もっとも、このヨハネ福音書が書かれた時点では、主イエス・キリストがおっしゃったことの意味をはっきりと理解し、御言葉を伝える使命を自覚していたに違いありません。そして、この祈りの中に表わされたイエス・キリストのお心が、自分たちを通して実現するようにと願っていたことでしょう。
さて、弟子たちの働きを通して、将来起される新しい人々に対するイエス・キリストのお心とは何でしょうか。21節から23節にかけて、「一つになる」ということが三回繰り返して登場してきます。
「すべての人を一つにしてください」と主イエス・キリストは祈ります。キリストはすでにこの祈りを聞いている弟子たちが一つとなることを祈りましたが、その弟子たちを通して、後にキリストを信じるようになる人全てが一つとなることを願っています。それは教会の一致を願い求める祈りということができると思います。
現実の教会がほんとうに一致しているかどうかと問う前に、主イエス・キリストがそのことのために祈っていらっしゃる、ということに目を注ぐことが大切です。キリストの時代からずっと存続しつづけてきた教会は、争いと分裂の嵐の中を何世紀にもわたって潜り抜けてきました。今なお一致した完成された教会の姿を見ることは難しいかもしれません。しかし、そのことのために、キリストが祈ってくださったという事実に目を留める必要があります。
教会を一致に導くことが主イエスのお心だということを覚えて、いつも一致へと向かう姿勢をわたしたちが持ちつづけるためにも、教会の一致のために祈ってくださったキリストを思い起こすことが大切です。一致への努力を放棄してしまうことは、キリストのご意志に反することです。
もっともイエス・キリストは一致の努力をわたしたちに任せられたということではありません。この一致の基礎には父なる神と御子イエス・キリストとの間に一致があることが大きな前提として述べられています。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」
一致の基礎がすでに出来あがっているところに、教会の一致が建て上げられて行くということなのです。父なる神と御子イエス・キリストとの一致の中にわたしたちが招き入れられています。そのことを通して、教会の一致が実現して行きます。それはキリストがわたしたちの中にいてくださるということであり、わたしたちがキリストの愛の内にとどまるということにつながっています。
キリストは「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」とおっしゃっています。それは「一致に向かって完成されるためである」とも訳せる言葉です。キリストのうちにある一致の基礎に身を置きながら、完成へと向かって歩みつづけることが大切です。
最後に、この一致の結果、どんなことがおこるのでしょうか。キリストは語ります。
「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」
教会が一致するとき、世はキリストを正しく知るようになり、神の愛が教会に注がれていることを知ることができるようになるのです。