2015年6月25日(木)栄光の時が来た(ヨハネ17:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうから、新しい章に入ります。イエス・キリストが弟子たちと最後の食事を取られたとき、そこで弟子たちにお話になった、かなり長い一連の説教をわたしたちは学んできました。ヨハネによる福音書の13章から16章までの4章にわたる長い部分です。
これから学ぼうとしている個所は、最後の晩餐の席上ですべてをお語りになったイエス・キリストが、お話の締めくくりとして最後に捧げられたお祈りの言葉です。ヨハネ福音書の17章全体がその祈りの言葉に当てられています。福音書の中でもイエス・キリストの祈りの言葉をこれだけの分量で記した個所は他に見ることは出来ません。そういう意味で、とても貴重な個所と言う事ができると思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書17章1〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
今お読みしたのは、17章に記された祈りの言葉の冒頭部分です。17章全体は26節ありますから、分量としては五分の一ぐらいにあたります。この祈りは今まで学んできたイエス・キリストの告別の説教を締めくくる祈りという性格を持っています。冒頭部分に続く祈りの言葉は、とりなしの祈りという性格を持っています。あたかも神と世とのあいだに立ってとりなしの祈りを捧げる大祭司のようにイエス・キリストは祈りを捧げていらっしゃいます。それで、昔からこのヨハネ福音書の17章に記されたイエス・キリストの祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれてきました。
きょうはこの祈りの冒頭部分を学びたいと思います。この部分は弟子たちや教会に対するとりなしの祈りではなく、イエスご自身が栄光を求める祈りです。その出だしは「時が到来した」というイエス・キリストの「時」に対する強い意識が表明されています。
「父よ、時が来ました。」(ヨハネ17:1)
このヨハネ福音書の中には、繰り返し、「イエスの時がまだ来ていない」という言葉が綴られてきました。この福音書の2章に記されているカナでもたれた結婚式で、母マリアがイエス・キリストに願事をしようとしたとき、キリストはおっしゃいました。
「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)
それから、7章に入ると、イエスの兄弟たちが、エルサレムに上ってご自分を示すようにとキリストに勧めたときも、キリストの答えは同じでした。
「わたしの時はまだ来ていない」(ヨハネ7:6)
さらに、8章に進むと、イエス・キリストをを捕らえようとした人々が結局は手を下す事が出来なかったことを書き記して、ヨハネ福音書は「イエスの時がまだ来ていなかったからである」とコメントを加えています(8:20)。
けれども、12章の終わり頃から、キリストは自分の「時」が到来したことを弟子たちに告げられます。たとえば、12章20節以下に、何人かのギリシア人たちがイエス・キリストの弟子のひとりであるフィリポのところにやってきて、キリストにお目にかかりたいということを告げる場面があります。そのとき、そのことを聞いたキリストはこうおっしゃいます。
「人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23)。
そして、弟子たちにすべてをお語りになったイエス・キリストがささげる祈りの言葉も、この「時」についての意識が前面に出ています。
イエス・キリストが意識された「時」というのは、神によって定められた時のことです。キリストに敵対する人々は、イエス・キリストを捕らえようとして計画を練り、密かにチャンスが到来するのを待っていたことでしょう。けれども、イエス・キリストにとっては、人間が愚かな知恵で生み出した「自分の時」「自分の都合」ではなく、もっと大きな神が定められた時の流れに心を用いていらっしゃったのです。
では、一体どんな時が到来したというのでしょうか。直前の16章32節で、イエス・キリストは「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」とおっしゃっています。確かに人間的な観点から見れば、キリストが見捨てられる時に違いありません。十字架にかけられるキリストの姿を見て、弟子たちは逃げまどってしまいます。
けれども、最後の晩餐の席につこうとするイエス・キリストの姿を描いたヨハネは13章1節でこう記しています。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
それは、ただ単にイエスが捕らえられて十字架に渡される「時」ではなくて、この世から父なる神のもとへと戻られる「時」なのです。今までイエス・キリストが弟子たちにお話になった言葉によれば、それは、信じる者たちのために場所を用意して、迎え入れる準備をするための時です。それはまた、イエス・キリストに代わって聖霊が遣わされて来るときでもあります。
この時の到来にあたって、イエス・キリストが第一に願ったことは、以前父のみもとで持っていた栄光に輝くことでした。今まさに十字架での死を遂げようとされるイエス・キリストですが、人間にとっては屈辱と不名誉以外の何ものでもない十字架の時をとおして、ご自分が栄光あるものとなるようにと願う祈りだったのです。
人間にとっては滅びの象徴でしかない十字架ですが、栄光に輝くキリストには、永遠の命を授ける権威が既に与えられているのです。この世はキリストを十字架にかけて殺してしまうことで、キリストから一切の権威を奪ってしまったと豪語するかもしれません。けれども、十字架のキリストにこそ人を真に生かす永遠の命を授ける権威が与えられているのです。
ところで、イエス・キリストは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とおっしゃっています。知るとは単に表面的に知ることではありません。十字架のうちにこそ、キリストをお遣わしになったお方のご意志が深くかかわっていることを信じて、そこに自分の全存在を委ねるような知り方です。この永遠の命に輝くキリストを、十字架の上に見上げて行きたいと願います。