2015年6月18日(木)私は既に勝っている(ヨハネ16:25-33)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうは、最後の晩餐の席上で、イエス・キリストが弟子たちにお語りになった最後の言葉をご一緒に学びたいと思います。この言葉のあと、ヨハネによる福音書の17章では、イエス・キリストは長い祈りを弟子たちのために捧げています。その祈りを捧げる前に、イエス・キリストが弟子たちに語られた言葉は、最後の晩餐を締めくくるにふさわしい、慰めと励ましに満ちた言葉です。このイエス・キリストのお言葉から勇気と希望を与えられたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 16章25節〜33節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 先週、学んだ個所では、弟子たちが困惑する様子が描かれていました。キリストが父のもとへ帰られるということも、また、再び彼らに姿をあらわすということも、弟子たちにとってはわけのわからない言葉としてしか響いていませんでした。しかし、今日学ぶ個所では、弟子たちのしっかりとした信仰の言葉を耳にすることが出来ます。

 「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

 しかし、弟子たちのこの信仰の告白は、ほんとうにその通りなのでしょうか。弟子たちは、本当にわかったといえるのでしょうか。確かに、キリストが神のもとから派遣されてきたということを信じる弟子たちの気持ちは真実なものであったことでしょう。けれども、その信仰告白と自分たちの行動とが一致するほどに理解が深まっていたかというと、決してそうではありませんでした。弟子たちの信仰が、その時点ではまだまだあやふやであることを一番ご存知なのは、主イエス・キリストご自身でした。弟子たちが十字架のキリストを見捨てて逃げ去ってしまうということをイエス・キリストご自身がご存知だったのです。

 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」。

 キリストはそうおっしゃっています。

 弟子たちの頭で理解できたことは、キリストが何でもご存じであると言うことと、そのように何でもご存じであるのは、キリストが父なる神のもとからやって来られたからだということです。しかし、それは知識としての理解であって、危機に直面するときに、揺らぐことがない信仰ではないことを、キリストご自身、見抜いておられたのです。

 この事実を告げなければならないキリストは、苦しく、悲しい思いであったかもしれません。それはせっかく信仰を言い表した弟子たちの言葉を打ち消すようにも聞えるからです。けれども、イエス・キリストは、弟子たちがご自分を捨てて散らされて行ってしまうことを決してとがめているわけではありません。そうではなく、たとえ、見捨てられようとも、ご自分がけっして一人ではないことを弟子たちに告げて、安心させているのです。

 ところで、弟子たちがあの信仰を告白する前に、実はイエス・キリストご自身が、こうおっしゃっていらっしゃいます。

 「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

 このイエス・キリストの言葉に促されるような形で、弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と告白しているのです。つまり、弟子たちの信仰が今は不充分な理解に基づくものであれ、また、行動によって自分たちの信仰の確かさをあかしすることが出来ないものであったとしても、キリストは彼らの信仰を、彼らが告白するよりも前にご存知だったのです。

 弟子たちは、芽生えたばかりの小さな信仰を抱いて、キリストが父のみもとへ去った後も、地上での生活を送らなければなりません。弟子たちが具体的な信仰の歩みを進めるのはこの世です。キリストはこの弟子たちが残るこの世について「あなたがたには世で苦難がある」とおっしゃいます。すでに、弟子たちに語ってきたように、この世はキリストを憎んだように、弟子たちをも憎もうとしているからです。弟子たちが持っているあやふやな信仰ではとても乗り切る事が出来ないような現実が待ちうけているかもしれません。

 けれども、イエス・キリストは弟子たちに「勇気を出しなさい」とおっしゃいます。いったい、その勇気の源はどこにあるのでしょうか。それは弟子たち自身の内にあるわけでは決してありません。イエス・キリストはおっしゃいます。「わたしは既に世に勝っている。」

 「私は既に勝っている」とおしゃるイエス・キリストのうちにこそ、わたしたちの勇気の源があるのです。イエス・キリストは弟子たちの信仰のあやふやさも、弱さも、何もかもご存知です。その弱くて不完全な弟子たちが、この世で勇気をもって過ごすことが出来るのは、既に世に勝利を収められた主イエス・キリストがいらっしゃるからです。そのキリストとともに歩むとき、わたしたちのうちにも勇気と平安とが与えられます。勝利者であるキリストがいてくださるところには、恐れがありません。このキリストから勇気と平安とをいただいて、共に歩んでいきましょう。